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椿の庭

ずっとずっとずっと観たかった映画「椿の庭」をやっと観れた。
自分自身に心の余裕がずっとなくて、ガサガサした気持ちのままにこういう映画を観てもうまく受け入れられないだろうなと思っているうちに2年の月日が流れていた。
今だ!と思って観た。
すごくすんなり入ってきた。
今で間違いなかったんだなと思う。

物語はそれほど複雑ではない。
神奈川県葉山に海が見渡せる位置に建つ古い家がある。
庭には季節ごとに花が咲き、多くの木々に囲まれた中にその家は美しい姿で存在している。
そこでは絹子(富司純子)と孫の渚(シム・ウンギョン)がふたりで暮らしている。絹子の夫が亡くなり、その家の相続税などの問題で思い出深いその家を売りに出さないといけない事態になってしまう。そのことを受け入れてからというもの、絹子と渚はうまく言えない切なさにさいなまれていた。
この家にまつわる思い出の数々、それらの仕舞いどころに悩む絹子。そしてある決意をする絹子。それを静かに見つめる渚。ふたりのこれからの人生は…そしてこの美しい家の行き着く先は….

映像は庭で飼っている数匹の金魚のうちの一匹が死んでしまうところから始まる。ふたりは死んでしまった金魚を椿の花で包み庭に埋葬する。そしてそこに1本の線香が立てられる。
静かだ。
余計な効果音は何もない。
水の音、木々が風に揺れる音、鳥の鳴き声、蝉の鳴き声、雨の音…
そういう音でこの作品は作られている。
美しい庭であり、美しい風景、美しい日本家屋、どれも惚れ惚れするものばかりだが、特に美しいのは絹子の所作。
いつも着物を着て、お茶を入れる仕草、お辞儀をする仕草、空を見上げる仕草、どれをとっても礼儀正しいということ以外にその人の生き方が反映しているであろう所作の美しさを感じる。
本当の意味での「丁寧な暮らし」とはこういうのをいうのだろう。
巷にあふれる「丁寧な暮らし族」など足元にも及ばない世界がこの映画の中に存在している。

しかし、どんなに美しいものでもいつかは朽ちていく。それはどうすることもできないことではあるが、未練なく凛とした姿で朽ちていくことを願いたい。それは絹子も視聴者も同じではないかと思う。ある場面において絹子、あるいは渚に心が重なる瞬間がある。静かな映画なのに、やけに心臓がドキドキするのがわかる瞬間だ。
観る人によっては「退屈な…」という感想を述べる人がいる。それはそれでひとつの意見ではあるが、あえて退屈という言葉を使ったとしても、私はその退屈を楽しむことができた。それはこの際自慢していいのではないかとさえ思っている。
恋愛がなくても、事件が起こらなくても、キテレツな登場人物がいなくても、こんなに素敵な日本映画ができるのだ。それはとても嬉しいことだ。
余計なものを足さない、必要のないものを削る。
引き算の総仕上げのような作品だなと思った。

富司純子さんの所作の美しさにも惚れ惚れしたが、シム・ウンギョンさんの静かに物事を捉える演技も素敵だった。
シム・ウンギョンさんは『新聞記者』という映画の撮影中にこの作品も同時進行で撮影していたらしい。『新聞記者』のあの燃えたぎる感情をむき出しにする役と、この静かな役をどうやって演じ分けていたのか、そこのところもとても興味がある。

観れてよかった。
今、観れてほんとうによかった。



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