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信号待ちの彼方にセスナ機のまなざし

短い時間の長い瞬間
2[ 信号待ちの彼方にセスナ機のまなざし]



高東剣志は自転車で会社に向かっていた。
会社は家の最寄り駅から2駅目にある。以前は電車で通っていたが、感染予防のために自転車通勤に変えて1年半が経とうとしてる。

いつもこの交差点で赤信号に引っかかる。それだけ自分が家を出る時間が正確なのと自転車を漕ぐ時間が一定なのだろうと思うと、何となく真面目すぎる自分が嫌になることがある。いつも同じ時間にちゃんと出社する剣志を同僚たちは嫌味を込めて「高東は真面目だねぇ」と冷やかす。
交差点の様子もいつもと変わらない。こちら側にも十数人、向こう側にも十数人信号待ちをしている人がいる。いつもは信号待ちをしている人の顔など興味もないのだが、向こう側にいるひとりの女に目がいく。好きなタイプとかそういう好奇心ではなくどこかで見たことのある顔だと思ったからだ。
どこで見たが、いつ見たか、そんなことはまったく覚えていないが、確かに見たことのある顔だった。
信号が変わる短い間に頭の中の記憶をこねくり回して剣志は必死に思い出そうとしていた。女の顔をじっと見つめる。
とその時、その女の後ろから大きな声で「なつ、おはよー」と言って駆け寄ってくる人がいた。剣志が見つめる女はその声に反応し、横並びになりふたりでにこやかに話をしている。

なつ…と言ったな、確かになつと…
どんな字を書くのだろう。
確かにあの顔にもその名前にも覚えがある。
そう思った時、赤信号なのに渡ろうとした男が車から警笛を鳴らされて、そこにいたみんなが男の方を向いた。なつという名の女もその男の方を向いていた。剣志から見ると、女の横顔が見えるような角度になった。

剣士はその横顔を見た瞬間に思い出した。
それは別れた妻の美涼と結婚5周年の記念にラスベガスに旅行した時のことだった。
ラスベガス旅行業者に勧められてグランドキャニオンにセスナ機で行くツアーに申し込んだ。妻の美涼は「セスナ機って怖くない?なんか気が進まない」と不満を漏らしたが、「ここにきてグランドキャニオン見ないで帰るなんてもったいないよ」と説得して何とか飛行場まで連れてきたのだった。その日は悪天候で雪もちらついている。セスナ機の出発がそのせいで30分ほど遅れていた。美涼は「だから嫌だったのよ。ホテルで美味しいもの食べてカジノで遊んでる方が良かったわ」と、混み合う待合室のベンチに座って膨れっ面をしていた。剣志は5年も一緒にいればだいたいの美鈴の性格はわかっていてそんな抗議には構うことなくパンフレットを見てグランドキャニオンの雄大さをこれから体験するのだという楽しみでワクワクしていた。

50分ほど遅れてようやく搭乗手続きが始まった。搭乗者名簿にある自分の名前などに間違いがないか確認してサインをする。その時に自分たち夫婦の名前の下に「菜津」という日本人の名前を見たのだった。
剣志は交差点の向こうにいる菜津の横顔を見ながら「そうだ、あの時の菜津という女だ」とはっきり思い出した。
セスナに乗り込んんだ後も美涼の機嫌は直らず、膨れっ面から仏頂面になっていた。しかも鼻の頭とか口の周りの化粧が剥げて仏頂面に拍車をかけている。
「おい、化粧がはげてるよ。ちゃんと化粧直しした方がいいよ」
剣志は優しく言ったつもりだったが、美涼はそうはとらなかった。
「もうちょっと良い化粧品ならはげたりしないんだけど、あなたの安月給じゃ良い化粧品が買えないのよ。化粧がはげるのが嫌だったらもっと良い化粧品買ってよね」
「なんでそんな話になるんだよ」
「化粧品はタダじゃないってことよ」

そんな夫婦喧嘩をしている剣志たちを馬鹿にしたような目で見ていたのがあの菜津という女だった。好みのタイプではないが、美涼とは真逆のタイプで化粧もしているかしていないかわからなような顔をしていて、それでもはっきり意思表示のできる顔を持ってる女だった。声にこそ出さないが「あなたたちうるさいわよ」と、今にも怒鳴り出しそうな顔をしていた。
そうかと思うと雄大なグランドキャニオンの景色を見ながら泣いているようにも見えた。いったいどういった性格の女なんだろうと思っていた。
グランドキャニオンの空港に着いて降りる時にタラップで一緒になり、小さな声で「化粧がはげてるくらいどうってことないじゃない」と剣志に向かって言ってきたのだ。
返事をする間もなく、それだけを言うと菜津という女は振り向きもせず大きなリュックを背負ってさっさと空港ロビーの方へ歩いて行った。

あの時のあいつ…

信号が青に変わった。
そこにいた全員が一斉に歩き出す。
剣志もペダルに力を入れ自転車を漕ぎ出す。
剣志は菜津の顔を睨むように見つめながら渡る。
真ん中あたりで剣志は菜津の目を捉える。
ふたりの目が合って、そして離れるが、別段何も起こらない。
剣志は自転車を漕ぎながら「チッ!」と舌打ちをした。

たった1分程度の信号待ち時間だった。

つづく

1話はこちらから↓
「セスナ機は世界のどこかの空の中」


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。