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愛の匂いのするスープ


一歩進むごとに、過去の一歩が失くなっていく。
いつかこの場所もゼロになってしまうのだろう。
『霜柱を踏みながら 18』


先日何気なく見ていたテレビドラマの中で、不治の病でもうすぐ死ぬであろう娘がお父さんにひざ枕で耳掃除をしてもらうというシーンがあった。子供の頃の思い出を最後にもう一度味わってみたいという娘の願いに応えた父の姿がそこにあった。そのシーンを見た時に、とても悲しい場面のはずなのだけどすごく懐かしい気持ちが込み上げてきた。それは、ずっと忘れていたけど私も子供の頃こうやって父に耳掃除をしてもらったことがあるのを思い出したからだ。

それはまだ私が小学校低学年の頃だったと思う。「耳掃除してやろう」という父の言葉に何と返事をしたのか覚えていないが、気がつくともう父のひざ枕に横向きで頭を乗せていた。先っぽにウサギの毛のようなポンポンが付いた耳かきでガサゴソという音が耳の中で反響して心地よかった。常に優しくやってくれるのだけど、時々手に力が入って痛い時があって「痛いっ」「あっ、ごめんごめん」という他愛もない会話をしていたように思う。それは決まって夜で、いつもテレビがついていて、私は横向きになりながらテレビから流れている映像をぼんやり見ていた。

その夜もテレビを見ながら耳掃除をしてもらっていた。何の番組だったか覚えていないが香港の食べ物を紹介する番組で、その中にフカヒレスープが出てきた時に父が「これ美味しそうだな」と独り言のように言った。私は子供だったのでフカヒレというものが何なのか知らなかったし、茶色くてドロっとしているだけのそのスープがどう見ても美味しそうには思えなかったのだ。『こんなの美味しいのかな...』と口には出さずにそのドロっとした茶色いフカヒレスープを見ていた。

32才になった頃、私は仕事で頻繁に香港に行くようになった。何度目かの香港行きの朝、その日はものすごく体調が悪かった。胃がムカムカして常に吐き気があった。それでも大事な仕事の約束があるので行かなければならなくて一緒に行く同僚に何度も「大丈夫ですか?」と聞かれ「大丈夫だよ」と強気で返事をしたものの飛行機の中ではキャビンアテンダントさんに「着くまで起こさないでください」と言ってずっと座席を倒して横になっていた。香港に着くとまた日本の湿度など問題にならないくらいの湿度で、この湿度には慣れているつもりだったけどこの時ばかりは耐えられないかもしれないという弱気な気持ちになっていた。

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