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痺れをあげましょう、極上の。

以前読んだ料理関係の本に、人間が痛みを欲しているときは無意識に激辛料理を食べたくなるということが書いてあった。辛味は痛みに分類されるらしい。確かに唇や舌がヒリヒリするくらいの唐辛子が入った料理は痛い。その痛さを快感と感じる人がいることは確かだし、時々猛烈に辛いものが食べたくなるときがある。そういう意味でいうと、人間にとって痛みは必要不可欠なのだろうと思う。しかし私は激辛料理が苦手だ。痛みの快楽を得る前に胃が痛くなってしまうから色気も何もあったもんじゃない。その代わりになるかどうかはわからないが、そういうときは沼田まほかるさんの作品を読む。人は常に幸せを欲する。でも時々痛みがないとその幸せも感じなくなってしまうのではないだろうか。

「痺れる・沼田まほかる」を読んだ。
決して明るいとは言えない。希望や輝きなどはまったくない。でもそれが人間の(特に女の)中身そのものであるように思う。希望や輝きは、外見を装うひとつふたつのアイテムだ。中身はそれらによって隠されている。
仄暗い底辺よりちょっと上あたりに漂う9人の女が主人公の短編集。どの女も好きにはなれないが、どこか親近感の湧く女たちだった。

痛くて暗いけど、ある意味笑える女たちでもある。思慮深いわりには、自分の浅はかさに気が付かない。明るさの裏にある狂気、真面目さの裏にある悪意、普通っぽく装えば装うほどにそれらは露呈していく。まるで私?(あなた?)ではないか...と思いながら読み進める。

9 編の作品で共通して言えるのは、結末が想像できないこと。「えっ、そういうことになるの?」と毎回思う。不倫の物語もよくある不倫の結末では終わらない。老女の思い出話も憐れさだけが残り、殺人計画もオカルトのように終わる。「そうなるの?」という結末は読む人によっては未消化のまま終わった感じがして気持ち悪いだろうが、なかなか一筋縄じゃいかないところが沼田まほかるという作家なのだと私は思う。

怖くてエロティックで不穏でベタベタしてて、知らない小さな虫が無数に足元から這い上がってくる。ぞわぞわ、ぞわぞわ、ぞわぞわ...その無数の虫が首元まで這い上がってきたときに物語は終わる。

あぁ、癖になる。女の本質ここにあり。


十二年前、敬愛していた姑が失踪した。その日、何があったのか。老年を迎えつつある女性が、心の奥底にしまい続けてきた瞑い秘密を独白する「林檎曼陀羅」。別荘地で一人暮らす中年女性の家に、ある日迷い込んできた、息子のような歳の青年。彼女の心の中で次第に育ってゆく不穏な衝動を描く「ヤモリ」。いつまでも心に取り憑いて離れない、悪夢のような九編を収録。 (集録作品)「林檎曼荼羅」 「レイピスト」「ヤモリ」「沼毛虫」
「テンガロンハット」「TAKO」「普通じゃない」「クモキリソウ」
「エトワール」 BOOKデータベースより



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