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『推し、燃ゆ』を読みワイ、泣く


推しを推すという事が『あかり』にとってどういうことなのか、非常に熱量を持って表現されています。しかも一部じゃなくて、全部のページで隙間なく。推しを推す、それはあかりにとって『生きている』事と同義。

島本理生さんが『うわべでも理屈でもない命のようなものが、言葉として表現されている力量に圧倒された』と評されていますが、まさにその通りだと思いました。

以下、その熱量を特に感じた部分を紹介します。

推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。推しの魂の躍動が愛おしかった。必死になって追い付こうと踊っている、あたしの魂が愛おしかった。(109,110p)
やめてくれ、あたしから背骨を、奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。(112p)
推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。(112p)

あかりにとって『推し』がどんな存在だったのかがぐいぐい心にきます。推しを通して自分の解釈をしているとも書いてあるので「推しは背骨」というのも間違いないですね。概念的な背骨ではなく、あかりにとっては本当に『背骨』なんです。

最初の方に推しが子供の頃に出ていた舞台のDVDを見るシーンがあるのですが、その描写もすごいです。長すぎるのでここには書けないですが、気になった人は是非。あかりと同じように、内臓にきます。オタクの「萌え」とか「尊い」などの発作的な強い感情って、一定のラインを超えると心臓内蔵胃など体の中の様々な器官が一気に活動して気持ち悪くて苦しくなる感じしませんか?あんな感じです。


物語の最後に飛びます(唐突)。

推しの住んでいるらしいマンションの前を通り過ぎ、そのまま走って家に戻ると、あかりは衝動のままにテーブルの上にあった綿棒のケースを床にたたきつけます。

綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨を拾うみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。(p125)

推しを失い、絶望の最中にいるあかり。復活までには長い時間がかかると思うのですが、この描写でその事を改めて感じました。綿棒を骨に例えるってえぐないか?これがメタファーってやつか?!

読了後、絶望感のみが残りました。でも、『あかり生きて!!!!』と救いを求めるようにもう一度読んでみたら、絶望感が少し薄れたんです。

恐らく、最後の『這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った』という文章で少しだけあかりの未来を感じたというか、推しがいなくなって止まっていた時がほんのすこし動き出すような、そんな印象を受けたからかもしれない。最初はこの部分を読んでも「推し・・・イナイ・・・オワタ・・・・・」という感情しかなかった(厄介オタク的思考)ので、一度冷静になって読んでみたらまた違った印象になりました。

あーーーー、最高に読みづらいお話だった(超褒めてる)。

だから3次元の男を愛すのは良くないんだよ・・・(急に何ですか?)

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