見出し画像

人が死ぬところに立ち会った話。

母からの突然の電話


「ばーば、今日明日やわ。」
その一言を聞いて、大学にいた私は全ての用事を放り投げなんの用意もせずその足で八王子から祖母の入院する奈良に向かった。
突然の電話は嫌な知らせを連想してしまうから苦手なのだけれど、今回は本当に嫌な知らせだった。

祖母の危篤は今回で2回目。
1回目は丁度この1年ほど前、フィリピン留学中に母から連絡があり同じように飛行機に飛び乗って日本に帰国した。
その時の祖母は思いの外元気で、私がいる間に体調も良くなり、安心してフィリピンに戻る事が出来た。

だけど今回は
なんでも明るく笑い飛ばす母の
「今回はほんまに覚悟せなあかんみたい。」
との言葉に、心の奥にずしんと響くものがあった。

とは言うものの、
本当にもう会えなくなってしまうかもしれないのに、案外取り乱すことはなかった。

ただ、間に合わなくなる前に、伝えたいことを全部言わなきゃ!って気持ちでいっぱいだった。

にーやんの死

伝えれることは全部言わなきゃ!
これは私にとって信条に近いもの。
これを語るには”にーやん”の話は欠かせないので話させてほしい。

母姉妹たちの子供時代から私たち兄弟にかけてすごく可愛がってくれた夫婦。二人をそれぞれ"にーやん""せいこねーちゃん"と呼んで大層甘えた。
血縁的繋がりはなく、立ち位置的にはおばあちゃんの古くからの親友という関係だった。
だけど、二人は親戚の会に参加していたりお年玉をくれたりと、子どものいない2人は私たちをいつも気にかけてくれて血縁関係を超えた繋がりがあった。

そんな大好きなにーやんは私が12歳の冬、突然発作を起こし亡くなってしまった。
最近まで体を壊して入院していたのは分かっていたけど
こんなに突然に、あっけなく、身近な人が死ぬなんて想像したこともなかった。
おいおい泣いたり、感謝の言葉を言っても反応はなく、返事もない。
冷たくなったにーやんと対面して初めて、もうにーやんと言葉を交わすことができないことを理解した。
言えなかったありがとうや話したかったことがありすぎて後悔の気持ちでいっぱいだった。

このあたりから、死ぬということを現実的に捉え始め
自分の中で考え始めることが多くなったのです。
「生きてるうちに伝えなきゃ」と。


ばーば、来たで!

昔から祖母の家に行ったときの決まり文句だった。
病院についたとき、祖母の意識はまだあった。
「ばーば、来たで!」
もう、頭は動かせなくなっしまっていた。
だけど、目だけを動かして私を確認し、何度もうなづいてくれた。

よかった、間に合った。ばーばはかすかな声でずっと何かを伝えようとしてくれていた。

「そやで〜、私やで!会いにきたよ〜」

そこから私はばーばの耳元で、手を握って、いつものように話をした。
大学の事、好きな歌手の話、思い出話などどうでもいい話を何から何まで話した。

「ばーばいつもありがとう、大好きやで」
「この前こんなところ行ったよ」
「ばーばのお味噌汁また食べたいな」
「早起きして散歩して公園で体操するのまたやろう!」
「ばーば私が結婚して子供産むまで、もうちょっと待ってくれへん?」
「ばーば、もう一回行きたいって言ってたシンガポール連れてってあげる」

もう前のように会話はできなくても、ばーばはちゃんと私の話を聞いて、うんうんと相槌を打ってくれていた。

最期の時間

翌朝になると、ばーばは相槌を打つこともできなくなっていた。
それでも手を握って、大好きなばーばに、感謝も愛情も全部伝え続けた。

やがて心拍数が下がり始め、お医者さんが駆けつけてきて
最期がもうすぐであることを伝えてくれた。

最後の最後に「ばーば、私立派な人になるからね。大好きやで~!」
と言った時にばーばが流した涙はこの先一生忘れない。

2019年10月9日
そうしてばーばは娘と孫たちに囲まれ、静かに息を引き取った。

正直亡くなった瞬間はいつなのか分からなかった。
ドラマみたいな途切れた瞬間力が抜けてバタっとする感じではなく、ばーばは徐々に冷たくなっていった。

さいごに

ばーばのお葬式、すごくすごく悲しかった事に変わりはないけど、
にーやんの時に感じた後悔は全くなかった。
全部伝えれた。あとは私が立派な大人になって、約束を果たすだけ!とむしろ生きる元気が出ていた。

これから先の人生色んな人とお別れする事があるかもしれない。
その時に後悔しないように、大事な人みんなに感謝と愛を伝え続けていきたい。

ありがとうばーば!



この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,034件

#おじいちゃんおばあちゃんへ

2,689件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?