凶眼の拳 -少年、獄底にて世界を殺伐す- #4
控え室に着き、注射を打たれると、
「お、おつかれさまでした! 気分はどうですか? い、痛いとことかないですか?」
――眼の前に桐旗呉美の顔があった。
紅潮した、余裕のない笑顔が、どこか痛々しい。
「……なんでここにいる」
ほとんど唸るような声しか出てこなかった。
「あっ、あたりまえですっ! わっ、わっ、わたし、海坂さんの世話係ですよぅ!」
パタパタと手を振りながら、必死な口調でそう言う。
……この女は、僕に対する怯えを押し殺して近づいてきた。
その事実が、本当に恐ろしい。
この女、一体どういうつもりなのか。
なぜ寄ってくる。
そんなに僕が嫌いか。
「確かに、わ、わたし、友達、いません」
決然とした声。
一瞬、何のことかと思ったが、そういえば前に会ったとき僕はそんなようなことを言ったような気がする。
見ると、親の敵でも睨むような眼になっている。
「だから、その、かか海坂さんっ!」
半泣きで、恐れ混じりながら。
「と、とと友達に……なってくれませんか……?」
ぞわり――と。
その瞬間、全身が鳥肌に覆われ、産毛が逆立つ感覚に襲われた。自分の膝に置かれた手が、震えながら爪を立てる。
噛み締められた歯が音を立てる。
今、何と言った?
この女は今何と言った?
自然と、手が動いた。毒蛇のように跳ね上がる。
「――ッ!?」
僕の右手は、桐旗の口を塞ぎながら、頬に爪を立てていた。
「おい」
お前は僕をナメているのか。殺すぞ。頬骨握り砕いて殺すぞ。
――言葉が胸中を満たし、喉元まで至る。
そして、イメージする。どうやって僕を不快にさせた報いをこの女に受けさせるべきか。とりあえず顔面を破壊しよう。放射能で腐りかけた果実みたいになるまで殴りつづけ、それから顔の皮膚を引き裂こう。その忌々しい舌は当然引き抜き……いや、むしろ下顎を本体から毟り取った方がいいかな? 何もなくなった口腔の中で、涎をだーだー垂らしながら舌だけが蛆虫みたいに蠢いている光景は、最高に無様で滑稽だろう。眼球、もちろん抉り取る。でも片方だけは残してやるんだ。後でこいつが鏡を見て、絶望できるよう――
待て待て待て待て――待てよ。
待てったら。
何、それ。
何なの。
連結されたかのように動かない視線を、無理に桐旗呉美から引き剥がし、天井を見る。
睨み付ける。
ブタのクソでもここまで臭くはないだろうってぐらいに腐敗しきったその思考を、客観視する。
――おいおい、笑わせてくれるなよ海坂涼二。
何だそのガキの我侭みてえなタワゴトはよ。
暴力で我を押し付けるということをしないがために、それをしたらこのクソッタレな世界に対して敗北したことになるということがわかっていたがために、海坂涼二は自分の顔を、否応なく他者を惹きつけずにはおかない完全なる美貌を、壊したんじゃなかったのか。
壊したんじゃ、なかったのかよ。
「……クソッ」
他人の好意がキショい? ウザい? かったるい?
あっそう。ふーん。かわいそうだね。
どんだけクズなんだよお前は。
世界のすべてにとって、お前の性癖なんか知ったこっちゃねえんだよ。自分を見て欲しい、自分を知って欲しい、自分に合わせて欲しい。知らねえよそんなこと。自分が世界に合わせろよ。
で、挙句の果てに、女の子に声をかけられただけでブルってバキバキに壊しましたってか?
「クソがッ」
痙攣する指を無理やり動かし、桐旗呉美の顎を離す。
代わりに自分の顔を両手で覆い、爪を立てる。
「かひっ……けほっ、けほっ」
横では、か細い咳きが響いている。本人の意志とは関係なく、僕の仕打ちを責め立てる。
「けほっ……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……ひっ」
ようやく聞こえてきた言葉は、嗚咽と咳きでひどく聞き取りづらかった。
「ごめんなさい……ひっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ぶたな、いで……」
そして言葉はすすり泣きの中へと沈んでゆく。
カッと、眼の前が赤くなった。
「もっとでかい声で謝れ!」
「ひぐっ!?」
「早くしろ!」
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
「もっとだコラァ!!」
「ごめんなさいぃぃぃぃっ!!!!」
……それからしばらく、泣き声だけが室内を満たした。
桐旗呉美への苛立ちと自己嫌悪の間で、僕は磨り潰されそうだった。
というよりこれは、吐き出してはならない毒を吐き出したことによる虚脱か。
爽やかであると同時に、空しい。
少しだけ、余裕を取り戻す。理性的な自分を取り繕う余裕だ。
「……ごめん、悪かった」
ようやく絞り出した声は、自分でも呆れるほど力がなかった。
「ふえっ……?」
僕は泣き崩れる少女の前に屈み込むと、静かに目を合わせた。
「本当に、悪かった。今のは全部僕が悪い。もっと謝れなんて言ったことも含めて、本当に、ごめん。怪我、しなかった?」
見上げると、彼女は赤い眼を丸くして、ぽかんとこっちを見ていた。
「あ……え……? えと、はい、怪我とかは、ないですけど……」
「そう」
今度はうまくいった。穏やかで優しい声が出せた。
「じゃあ、もう行っていいよ。友達うんぬんは、宇津野に言われてやらされたことなんだよね? 彼には僕から言っておくから、君ももう嫌なことしなくていいよ」
彼女の腕を取って、一緒に立ち上がった。
包み込むような微笑みも付けてやる。
だから、早く僕の視界から消えてくれ。
「え、ぁ……でも」
彼女は、ゆでられたようにぼうっとした眼で僕を見る。薄い唇がわなないて、少女の迷いを伝えてくる。
――何やってんだ、早く消えろ。
その言葉をぐっと飲み下し、僕は眼を少し細めたまま、彼女と視線を絡ませる。
「……でも、あの……嫌じゃ、ないですから……」
「あ?」
ススキとか葦とかそのへんの草のごとく、踏み倒せば二度と起き上がってこられないであろう華奢な肢体が、この瞬間だけは全身を力で強張らせ、噴き出しそうになる怯えを堪えていた。人形のように整ったその顔は、熱を帯びている。
「海坂さんのお世話するの、嫌じゃないですからっ」
何、だと……
恐怖がぶり返す。自分のありようを無自覚に否定される恐怖が。
あんなことをされて、まだ僕の近くに寄ってこようと言うのか。
額に指を押し当て、強張った思考を揉みほぐす。
――いや待て。あんなこと、などと言ったところで、実際にしたことといえば彼女の顎を掴んでから謝れとがなっただけだ。
そうだ、この女は僕に幻想を抱いている。自らの欠落に苦悩する美しい少年という、お寒いイメージを僕に重ねているんだ。だからこんなナメた口が利けるんだ。
「……あっ、汗、拭きますね」
僕の沈黙をどう勘違いしたのか――どこか嬉しげな声とともに、タオルが肌に触れた。柔らかい手つきで、全身に浮かんだ汗の玉を拭き取られる。
それから、試合相手を殴って軽く腫れている手に冷却シートが貼り付けられている間にも、僕は思考の海に埋没することで、現実から逃げていた。
●
そうやって僕は、数ヶ月を生きた。試合の中で倒した相手は、そろそろ十を越える。
桐旗呉美は相変わらず、焦ったり怯えたりパニクったりしながらも、僕のそばにいることをやめようとはしない。
宇津野説螺はきっと、嫌がらせのために彼女を僕のそばに置いているのだ。そう思うしかない。
しかし、この頃は対処法がわかってきた。
睨めばいいのだ。
常にこちらの顔色を覗うこの女は、睨みさえすれば縮み上がってそれ以上近寄ってこない。
はん――犬め。
この少女を、自分と同じ人間ではなく、犬畜生だと思えば、さほど恐怖もない。
犬コロが尻尾を振るのは単なる習性だ。恐怖など感じる道理があろうか?
マジになって遠ざけようとしていた自分がバカらしい。
「あ、あのぅ、海坂さん」
「なに」
「聞かないんですか? わたしのことについて」
「は?」
「あ、あ、あの、だから、普通はわたしみたいなのがなんでこんな闘技場にいるのか、とか、今まで何やってたのか、とか、気になるものじゃないですか?」
「聞いて欲しいわけ? 同情が欲しい?」
「あ、あ! いえ、そういうんじゃ……!」
「悪いけど、君の素性とか過去とか心底どうでもいいから」
「は、あ、あの、はい、すいません……」
「無駄口叩いてる暇があったらポカリのひとつでも持ってこい」
「は、はいぃ!」
そういうわけで、桐旗の存在を考慮に入れなければ、僕はおおむねは安息した日々を送っていたと言っていい。
ここには僕を理解しようとする人間はいない。僕の好意を得ようとする人間はいない。僕を哀れに思う人間はいない。気持ちの悪い親愛の情を、受け取って当然というような顔で差し出してくる人間はいない。
清潔で、涼しく、乾いた世界。
負い目と嫌悪と疎外感でがんじがらめになっていた僕の魂が、生まれて初めて伸び伸びと活動し始める。
そして、思う。
この異視の眼を僕が得たのは、あるいは必然だったのではないかと。
ひどくあからさまな他者拒絶の認識。世界は醜く、動くものはすべて敵。そういう自分の世界観を、極端にしたものこそが、異視の眼ではなかったか。
――いつしか僕は、二十人目の対戦相手を半殺しにし、シャバに出る権利を得ていた。
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