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凶眼の拳 -少年、獄底にて世界を殺伐す- #3

  最初

 それから僕は目隠しをされ、別室に通された。
 〝治療〟は注射を一本打たれただけで終わった。
「何も、施術された視覚野を外科的に戻すわけではありません。色が正常に戻ったように見えるのは、単なる錯覚です。一週間ほどで薬の効果は消えます」
 正常なありようを取り戻した視界の中で、刃物のような空気をまとわせた男が、そう説明していた。カマキリを思わせる長身痩躯のスーツ姿に、オールバックの髪型。
 人間の姿が普通に見える。
 ただそれだけのことが、僕にはひどく貴重だった。
「いえね、ちゃんと手術して永久的に元に戻すこともできるんですよ? しかしそれをやるには莫大な費用と優秀な外科医、それに方々へ借りを作ることが必要になってしまいますしねえ……いやはや、どうにも」
「……それが、僕に対する交渉材料ってわけか」
「ご理解が早くて助かります」
 スゥ、と男は細く笑んだ。研がれた刃が光を反射するさまを思い起こさせる、剣呑な笑みであった。
「手術を行う以上の利益を我々に提供してくださったなら、その時は勿論あなたの眼を元に戻して差し上げましょう。……あ、申し遅れました。私は宇津野説螺と申します。以後、お見知りおきを」
 僕はそれに、心からの笑みで応える。
 こいつなら、安心だ。一目見ただけで分かった。強大な理性に本能を圧殺させた男の眼。僕を利用することしか考えていない、何の温かみもない眼。性根の腐りきったクズ野郎の眼だ。
 間違っても僕に歩み寄ってこないだろう。僕を理解しようなどという気色の悪いことは考えもしないだろう。用済みになれば躊躇いなく僕を切り捨てることだろう。
 素晴らしい。
 世界中がこいつみたいな人間ばかりなら良かったのに。
「二十連勝です」
「何?」
「とりあえず二十連勝してください。そうしたら仮釈放を許可しましょう。もちろん、日数分の薬も提供させていただきます」
「ふぅん」
 それが、当面の目標というワケか。
「あぁ、それから、彼女を紹介しておきましょう」
 宇津野はそう言って、横を向いた。
「桐旗さん? そんな影に隠れてないで、こっちにきて挨拶なさい」
 宇津野の視線の先を見ると、半分開いたドアの影から――なにか、ひどくこの場に似つかわしくないものが覗いていた。
 顔、だ。
 やたらと嗜虐心を呼び起こさせるというか……ありていに言うと泣かしたくなる顔つきの少女が、こちらの様子を見ている。
「さぁ、早く」
 宇津野に促されて、臆病なネズミのように飛び上がると、おずおずと進み出てくる。
「あ、えと……」
 ネギというか柳というか、体重の半分は骨なんじゃないのかと思われるほど、ほっそりとした少女だった。うつむき気味の小造りな顔を、黒いショートヘアーが縁取っている。琥珀色の瞳は、不安そうに揺れていた。
 嫌われないだろうかと、僕の顔色を窺っている。お腹の前で四指を組み、親指をすり合わせている。
「チッ」
 彼女に対する嫌悪感を封殺するのがわずかに遅れ、僕は舌打ちをしてしまった。
「ひぅっ……」
 途端、少女は肩をすくめて硬直する。少しでもつつけば崩れ散る、塩の結晶のように。
「……で、こいつが何なんだ」
 なんとなく暗鬱とした気分で、宇津野に問う。
「彼女はあなたの世話係です。ここでの暮らしについては、彼女が全面的にあなたの面倒を見ますので、そのつもりでお願いします」
 僕は無言で眉間に皺を寄せ、宇津野を睨みつけた。
「え、ええ~っ」
 口の中で歯軋りすらしていたかもしれない。
「いっ、いっ、いきなり! そんなこと、そんなこと言われてもっ!」
 横であうあう騒いでいる女がウザかったが、そんなことはどうでも良かった。殺意すら込めて、正面の男の眼を見る。
 穏やかな微笑に阻まれて、その真意はわからなかった。

 ●

 その日以降、僕は血臭漂う闘技場で生活することになる。
 ここは、どうやら刑務所の地下に存在する場所のようだ。
 月に二度の頻度で試合を組まされ、めでたく相手をぶちのめすと、特殊作業賞与とかいう名目で、異視を抑える薬がもらえる。
 敵をぶちのすだけでけっこうな額の『作業賞与金』が懐に入ってくる上に、このいまいましい異形の視界から逃れられるのは大きい。殺風景な独房暮らしを、退屈だと感じられる余裕を取り戻す。
 だからまぁ、とりあえずは奴らに飼われてやることにした。
 だが――
 通路を歩きながら、僕は顔傷が引き攣れるのにも構わず、眉間に皺を寄せていた。
「あ、あ、えと、すいません、あの、なんか、よくわかんないことになっちゃって、わ、わ、わたしも知らなかったし、びっくりなんですけど、あの、宇津野さんがそう言ったら、わたしもそうしなきゃなんないから、うぅ、あの、よろしくおねがいしますっ!」
 ――僕にとって他人は、三種類に分類される。
・どうでもいい
・気色悪い
・恐ろしい
 ……の、三種だ。最も上等なのは「どうでもいい」だ。宇津野説螺に代表されるような冷血人間どもとは、さほど気分を悪くすることなく付き合っていける。
 だが、この女は違う。「恐ろしい」の、最上位ではなかろうか。最悪だ。
「あ、あのあの、わたし、桐旗呉美って言いますっ! 十五歳ですっ! えと、えとえと、岡山生まれで……その……趣味は……」
 僕のあとを追いかけながら、聞いてもいないことを必死にしゃべりつづける少女。
 ――宇津野説螺の意図は何だ?
 世話係? だとしたら致命的に人選を誤っている。
 僕は足を止めた。
「ひゃっ!?」
 背後で、ぴくんと身体を縮こまらせる気配がする。
 首をめぐらし、肩越しに相手を睨む。
 少女が、祈るように両手を組み、怯えた眼でこっちを窺っていた。わたし、何か変なこと言いました? とでも言いたげな眼だ。
 沈黙が、降り積もる。
 僕は腹の底から黒い恐怖が周囲の肉へと染み込んでゆく感覚を覚える。じくじくと、じくじくと。
 それは、異視覚で人間を直視した時の怖れとはまったく別の、魂に根ざした恐怖だった。
 ――こいつのような人間は、ただ存在するだけで僕のありようを否定する。
 拳を、ぎりりと握り締めた。
「お前、友達少ないだろ」
 叩きつけるように、言う。
「え……」
 少女の余裕のない笑顔が固まる。
 僕は頬を歪めた。声を押さえながら。恐怖を押し殺しながら。
「無理するなよ。僕が――他人が恐いのなら、関わろうとするな。安心しろ。お前のパパとママ以外にお前を好きになる奴なんかこの世にいないから」
 くつくつと喉を震わせながら、顔を前に戻し、歩みを再開する。
 これ以上、少女――確か桐旗呉美とか言ったか――と関わっていると、僕はいつか悲鳴を上げながら彼女に殴りかかってしまう。その確信がある。
 が、そんなバカみたいなマネをするのは本意ではない。
 しばらく歩いていると、後ろで「ぐすっ」と鼻をすする音がかすかに聞こえ始めた。
 構わず、歩きつづける。
 少女に対する嫌悪と、自分に対する嫌悪と、ほんの少しだけ満たされた加害衝動の悶え。それらが胸中で渾然と煮崩され、どす黒い悦びとなって全身を駆け巡った。
 海坂涼二は他人に対して嫌悪を感じている。
 桐旗呉美は他人に対して恐怖を感じている。
 正反対なようで、実はすごく似ている。他者を忌避するという点において、僕と彼女はほとんど同じ存在だ。
 にも関わらず。
 僕は徹底的に他者を排除しているのに、彼女はおっかなびっくりながらも必死で他者と交わろうとしていた。
 言葉ではなく、その事実によって、彼女は僕を否定する。
 意図せず、何の悪意もなく。
 僕の人生を、魂を、ありようを。
 ずたずたに引きちぎる。
 それが、たまらなく、恐ろしい。

 ●

 ヘヴィメタルのデス声が耳を打ち、異形の観客どもは今日も盛り上がっている。
 白い金網に囲まれた中で、僕は今日の対戦相手と向かい合っていた。
 ……いつものことだが、人間に見えない。
 頭が狂いそうになるほど色がおかしいのはまぁ当然にせよ、そのシルエットからして人間離れしているように見える。四肢の先端や肩、肘、膝などが、サポーターでも付けているかのように盛り上がっている。それに手足の爪がやたら長い……ような気がする。
 気のせいだとわかっていても、どうしようもなくこみあがってくる恐怖。
 この視界だけは、いつまで経っても慣れるということがない。恐怖を押さえつけて冷静に立ち回れるようにはなったが、恐怖そのものの鮮度はまったく落ちない。
 だからもう、試合になったら遊びもせずにとっとと片付けることにしている。
 早くあの薬を注射しなければ。
 僕は床を蹴って突進した。
 咆哮。
 敵が迎え撃つように手を出す。ムチのようにしなる腕が、素早く拳を打ち出す。
 異様に長く伸びるジャブ。進むのも速いが、戻るのも速い。曲線的なフリッカーも織り交ぜ、高速連射。
 ――それだけかよ。
 ことごとく身体を傾ける動きだけでかわし、あっという間に肉薄する。鳩尾、喉、鼻に連続して拳を叩き込み、こめかみに肘を打ちつけ、ぐらりと傾いだ敵の腹に後回し蹴りを浴びせて吹っ飛ばした。
 柔らかいものと固いものをまとめて破壊した感触が、体に残る。
 秒殺試合だ。
 どうも僕は、相手の動きが事前にわかるだけではなく、肉体的に脆弱なポイントをも瞬時に見切れるようになりかけているらしい。
 弱点、とでも言えばいいのか。
 人間は殴られそうなとき、反射的に筋肉を硬直させて打撃に備えるものだが、それは身体のすべてをカバーしているわけではない。「まさかここに攻撃はこないだろう」という箇所が必ずある。
 状況によってせわしく変化するそのポイントを的確に突けば、ほとんど力も込めずに肉体を破壊することができるのだ。
 僕はポケットからアイマスクを取り出し、視界を覆い隠す。
 そうしてやっと安堵の息をつく。
 やがてリングに入ってきた係員が僕の手を引いて、別室まで連れてゆく。

【続く】

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