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閉鎖戦術級魔導征圧者決定戦 #5

 

 外套が汚れるのにも構わず、地べたに腰を降ろし、空を見上げ。
 何もせず、何も思わず、ただ酒瓶を傾けながら。
 路地は、異様な静けさに包まれていた。人気がまったくないのだ。極端な時刻というわけではなく、何らかの天災があったわけでもない。他人の意思決定に干渉し、無意識のうちにここから立ち去らせる――そういう類の呪的力場を、ここら一帯に張り付けているのだ。
 ――フィーエンは、今どこにいるのだろうか。
 ひどいことをした。そういう自覚はある。そんな程度の自覚、とも言えるが。
 良い子だ。両親が逝った時も、祖母が逝った時も、じっとこらえ、立ち上がり、立ち直り、こちらの手を引っ張ってくれた。引っ張ってやるのは、本当は自分がすべきことだったというのに。怒鳴って良い相手ではない。手を上げて良い相手ではない。
 ただ、押さえ切れなかった。
 懐に手を入れ、半円形の首飾りを取り出す。白い呪媒石の表面に彫り込まれた細かな魔法円を、親指が撫でる。
 ……押さえ切れなかった?
 自嘲気味に小さく笑い、息を吐く。そんな大層な事情があるのか。あの子に何の咎があるというのか。
 過去に自分がしでかした、どうしようもなく愚かで、取り返しの付かない過ち。
 その八つ当たりをしているだけのこと。救い難い。
 首を振り、上を見上げる。
 蒼穹が眼に入った。燦々と輝き、露骨に自分を見下していた。
 不意に、手元が温度を帯び始めているのに気付く。それは熱というよりも、暖かみ。染み入るように、手から身体へと。
 視線を下に戻す。手に持った半円形の首飾りから、霧雨のように曖昧で柔らかい光が滲み出ていた。どこか、覚えのある感触。記憶の琴線。
 不可解には思わなかった。ただ、手が震えた。
 わけのわからぬ衝動が突き上がってくる。
「ぐぅ……」
 呪媒石を握りしめ、胸に抱き、いっそう丸くうずくまる。
 その時。
 突如、鼓動のような衝撃が全身を走り回った。なにごとかと辺りを見回すが、周囲の景色に異常なところはない。異変は己の身体で起きている。
 再び、暴風のような痙攣が体躯を貫き、思わず酒瓶を取り落とした。硝子の割れる音が小さい。気がついたら視界に霞みが掛かり、頬を撫でる微風の感触もない。五感が鈍くなってゆく。体が溶けてゆく。世界が溶けてゆく。
 いや――
 自分が、世界から遠ざかっている……?
 白に染まりつつある視界の中で、半円形の呪媒石だけが、確かな存在感をもって網膜に投影されていた。網膜など本当に存在しているのかどうかすら、もはや曖昧なのだが。
 視界が完全に白くなった。白い世界の中にいるという風でもなく、何も映されていない映写幕を三次元に拡張したような、自分の肉体も、空間すらも存在しない、絶対の虚無の中であった。目の前に呪媒石が浮かんでいる。それだけが違和感として“存在している”。
 押し寄せてくるものがある。圧倒的なまでに巨大な、衝撃。奔流。
 肉体は消失しても、その事実を認識する主体たる個は残っていた。だが、この凄まじい何かの流動は、その個さえも押し潰してしまいかねないほどの膨大な圧力となっていた。
 彼は――まだ彼と呼べる程度は残存しているその者は――それの全体を見ることをあきらめた。それはあまりにも巨大過ぎて、すべてを把握することができないのだ。顕微鏡の倍率を変えるように細部へ細部へと意識を移してゆき、ようやく彼の主観にも理解できそうな規模となった。それは情報だった。断片的で、ちっぽけで、単体では何ら意味をつかみ取れない欠片。彼は極ゆっくりと認識の及ぶ範囲を広げていく。いきなり全体を見ようとするから理解できなくなるのだ。段階を経て徐々に視野を拡大してゆけばいい。最初の欠片を中心に、多種多彩な情報達が見え始める。それらは有機的に繋がり、干渉し合い、全体として総和以上の意味を持っていた。
 遅まきながら、その意味を彼は悟った。
 震撼する。
 彼が普段、五感を通して認識していた世界。それら全てを魔導構文の語法に記述し直した、かつてないほど大規模な論理模型であった。この世の偶像、その一部分であった。
 情報の奔流は止まらない。各々の断片が人智を超えた精度で噛み合い、組み合わさり、世界を構築してゆく。流れは、この異変の終始において在って在り続けた唯一の存在たる半円形の呪媒石より溶け出しているものであった。花弁が開くように、氷が溶けるように、折り畳まれた紙を広げるように、掌大のちっぽけな石から世界が展開されてゆく。解凍されてゆく。
 やがて、一つの情景が、完成しつつあった。
 彼は、それを見た。感じた。識った。
 絶叫が上がった。

【続く】

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