夜天を引き裂く #7
――あの夜。
絶無と脳怪物が死闘を演じ、そこへ重騎士が乱入したあの夜。
公園にはサラリーマンの惨殺死体が残されていたはずだ。もちろんそんなものを黒幕が放置するはずがない。必ず何らかの方法で証拠の隠滅にかかるのは確実だ。黒澱さんを家に送ったその足で調べに向かうと、案の定そこには不自然に掘り返された地面だけがあった。恐らく、黒幕は秋城風太以外にも何体か堕骸装を従えているのだろう。そいつらに死体を回収させたと見て間違いない。
「……それ自体が罠とも知らずになァ……」
携帯電話の部品を使って自作したGPS発信機。
死闘の最中、絶無はそれを被害者の死体に紛れ込ませていたのだ。
発信機の電波は、洞慕町を見下ろす山中にて消滅した。
すぐさまそこに向かい、死体を掘り起こして発信機を回収すると、周囲に残された足跡を徹底的に調べ上げた。
「残された足跡は三種類。そのすべてが孤蘭学院の制式運動靴。サイズからして全員男。調べてみたら、学校では去年から靴のスパイクの位置が微妙にマイナーチェンジされていたらしく、それらはすべて一年生のものだった」
後は下僕どもによる人海戦術だ。一年の運動部の男子生徒の家に連絡を取り、問題の日、問題の時刻にアリバイがあったかどうかを聞き出し、振るいにかけた。
残った名前は七つ。これに秋城風太を加えた八名の生徒の動向・交友関係を徹底的に調べ上げた。
「その結果――八人中六人の周囲に、最近とある女の影がちらついていたことが判明した」
絶無は右眼だけを真円に見開き、獰悪な笑みを浮かべた。
「それが界斑璃杏。お前だよ」
沈黙が、大気を凝らせた。
煮えたぎる酸のような視線が、絶無の全身を撫でていった。
界斑璃杏は、おもむろに細い腕を持ち上げる。
『……あ、虫♪』
そして、ぺちん、と自らの頬を叩いた。
『こんなところにキタナイキタナイ虫ちゃんがいるですぅ』
ぺち、ぺち。
音高く頬が鳴る。
『まったくこの病院はフエイセイなのですぅ。病室にこんな生物がいるなんてありえないですぅ』
ぺち、ぺち、べちっ。
『キタナくて臭くて醜くて、グズでノロマで何の役にもたたないですぅ』
ぺちぺちべちべちべちべち。
ごっ。
音が変わった。
『ホント、さいしょから、この虫ちゃんは、璃杏ちゃんの、足を引っ張る、ことばかりっ!』
音節ごとに、鈍い音が響く。
拳を固め、自らの顔面を殴打していた。頬が腫れ、鼻血が噴出す。
『えいっ♪ えいっ♪ 死んじゃえっ♪ 死んじゃえっ♪』
爪を立てて、顔を偏執的に掻き毟る。
紅い筋が幾重にも刻まれてゆく。
「おい、何をしている。やめろ」
橘が、その腕を掴み上げた。
『離すですぅ。くそ虫ちゃんを潰すですぅ。それ、潰れろっ♪ 潰れろっ♪』
もう一方の手で、なおも顔を引っ掻き続ける。
「やめろと言っている。おい久我、ナースコールだ」
両腕をまとめて拘束しながら、橘は絶無に顔を向けた。
深い深い溜息をつき、絶無は界斑璃杏に語りかける。
「慈悲深い僕は、一応話を聞いてやろうと思う。他人に堕骸装を植え付けて操り、無関係な人間を惨殺するその理由はなんだ?」
『――殺す』
ぽつりと、界斑璃杏は言った。
『おまえ、嫌い。殺す。いつか殺しちゃうですぅ』
「話聞けよガキ。これだから自我が強いだけのクソカスは嫌いなんだ」
『うっさい死ね、ばーか。殺す。殺してやる』
フッ、と。
秋城風太の体から力が抜け、倒れ掛かった。
「う……」
額に手をやり、持ち直す。
「うぅ……あれ?」
秋城風太はキョロキョロと周囲を見回し、不安げに眉を寄せた。
「だ、誰ですか?」
『ふむ、見たところ秋城風太本人のようですね』
「う、腕輪がしゃべった!?」
「おい、お前」
絶無は風太に歩み寄る。橘を押しのける。
「な、なんですか? 誰なんですかあなたたちは!?」
「黙れ。質問するのはこっちの方だ。界斑璃杏からもらった物を僕に渡せ」
風太の目が見開かれた。
「い、いやだ!」
「ほう、その反応を見るに、心当たりはあるわけか」
風太の腕を取り、素早く背後に回ると、捩じり上げた。
「痛たたたたたた!」
「――まず、小指だ」
耳元で囁きかける。同時に指を逆方向に曲げてゆく。
「関節をひとつずつ折り砕いてやろう」
「ひッ……!」
それだけで十分だった。
「わかった! 渡す、渡します!」
風太は首にかかっていた紐を外し、そこからぶら下がっていた小瓶を差し出してきた。
掌の中に納まる程度の、ごく小さな瓶だ。中に何かが入っていたが、光の反射で絶無からは見えなかった。
「ふん」
絶無はそれを掴み取ると、すぐにポケットに突っ込んで踵を返した。
「ま、待ってください! それをどうするつもりなんですか!?」
後ろから、風太が腕を掴んできた。
軽くため息をつき、絶無は振り返る。
「手を放せ。無能がうつる」
「それは……それは界斑さんと僕との接点なんです! 特別な、絆なんです……」
「……はぁ?」
どれだけ現状認識を欠いていればそんな妄言が吐けるのか。
「お前は特別なんかじゃない。あの女は、お前以外にもたくさんの男に同じことを言い、手駒にしているんだよ」
「そんなこと……!」
「お前は自分が何をさせられていたのかわかってない。最近夢遊病の気はなかったか? 妙にリアルで禍々しい夢を見なかったか? ニュースの血生臭い報道にデジャビュを感じたことは? 朝起きたときにわけのわからない血糊や粘液がこびりついていたり、あるいは裸足で外を出歩いたような形跡は?」
風太の眼が、見開かれてゆく。
「な……んのことですか……それが何だっていうんですか!」
思わず、こめかみがひくついた。
ここまで言ってもまだ認めないつもりか。いつまで逃げ続けるつもりなのか。
「これらの状況証拠が何を意味しているのか、僕からは特に何も言わない。ただ、ひとつ個人的な愚痴を聞いておけ」
胸倉を掴み上げた。
「ぐ……!」
真正面の至近距離から、絶無は風太を睨み付けた。惰弱で柔弱で、卑屈で未練たらしく、すぐに伏せられそうな眼だった。
美しさの欠片もない眼球だった。
「こうなる前になんとかする機会は、いくらでもあった。決して、お前は何も出来ないわけではなかった。なのにお前は何もしなかった。それだけは肝に銘じておけ。低能」
乱暴に手を離すと、絶無はもはや振り返ることもなく、病室から出て行った。
●
予鈴のチャイムを聞きながら、黒澱瑠音は朦朧としていた。
意識に霞がかかり、ふと気を抜くと頭が傾いている。姿勢を保つのに集中力が必要だった。
――おなか、すいた。
ここ数日、気づけばそればかりを考えている。
認識子の補充が、遅々として進まなかった。
悪魔は、人間から認識されることで活力を得る。
しかし、もともと自己主張は苦手である。そこにいるにも関わらず認識されない「空気」になりがちだ。
視界の端にちらりと見える程度ではまったくもって焼け石に水。空腹時に塩をなめているようなものであり、よりはっきりと空腹を自覚する役にしか立っていない。
頭の中で欲望が渦巻く。
――認識されたい。認識されたい。認識されたい。認識されたい!
これまで黒澱瑠音に認識子を提供し続けてきたのは、冴島玲子をはじめとする女子グループであった。
いじめという形とはいえ、積極的に瑠音を認識してくれたし、暴力が振るわれる際には肌と肌の接触もあったわけで、いやもちろんいじめられるのは惨めで苦しい気持ちになるのだが、この粘っこい炎のような欲望をある程度満たしてくれていた点はいかんともしがたく……
ところが、最近、そういうことが一切なくなった。
考えるまでもなく、久我絶無の乱入制裁による抑止効果だ。
冴島玲子たちは、もはや瑠音に視線を向けることすらしなくなっていた。
学校にいる間感じていた、わけのわからない苛立ちと憎しみの混じった視線が、ふつりと途切れてしまったのだ。
おかげで心穏やかに日々を過ごせるわけだが、認識子の供給が段違いに減少した現状は、少々深刻である。
どうして誰も自分を認識してくれないのか。
いや、わかっている。
――こんな暗そうなのなんて、誰も相手にしたくないんだろうな。
これぐらいのことは気付いている。日常生活の九割を頭蓋骨の内側で展開している瑠音にしてみれば、自省などほとんど本能と同レベルだ。
なぜ暗そうに見えるのか。これも理由は明白だ。前髪で目元を隠しているからダメなのである。
――でも。
他人に目を見られるのは嫌だった。
それだけは、どうしても嫌だったのだ。
――どうすれば、いいんだろう。
「おはようございます、黒澱さん」
心臓が、縮み上がる。
いた。
そういえば、自分を積極的に認識してくれそうな人がひとりいた。
頬が熱くなる。
自分は今なにを考えていた?
ぼんやりした頭を振り払う。
と。
視界に久我絶無の指が入った。
ぐにゃりと、視界が歪む。
頭の中を垂れ込める霧が濃くなり、酔ったように思考が鈍くなる。
彼が何かを言っているような気がしたが、よく理解できなかった。
けたたましい鼓動が内側から打ち付け、ふっくらした胸を震わせたような気がする。ブレザーの制服が、なぜかとても心もとなく感じた。衣服に包まれた自分の肢体を、強く意識した。
飢餓の悶えが、呼吸を早くさせる。
――指。
泣きたくなるほどしなやかな、彼の指。
自分の全感覚が、そこに集中しているのがわかる。繊細なシルエットを目に焼きつけ、先端が机の上をすべるかすかな音を拾う。
もどかしかった。
どうして人間の五感は、こんなにも不完全なんだろう。
そして、どうしてわたしは、こんなにも苦しい思いをしているのだろう。
あぁ、そうだ。
いじめられなくなったから、おなかがすいているんだ。
――責任、とってもらうんだから。
ふつりと、脳の中で何かが切れた。重く張った胸乳の奥で、欲望は正当化される。
この指の、肌触りが知りたい。匂いが知りたい。
――あじが、しりたい。
そろそろと、自分の手がのびてゆく。かるく曲げられた彼の指のしたに、自分の掌をさし込んで、もちあげる。
やわらかな体熱と、甘い肉につつまれた骨の硬さに、陶然となる。
彼がまたなにか言っていたが、すぐ目のまえまで迫ったこの指先よりだいじなことなんて、この世にない。
黒く熱い吐息が唇から漏れ、いただきます、と口の中で呟いた。
「はむ」
しあわせが、舌のうえにひろがった。
怖気のような多幸感が、背筋をそそけ立たせる。
●
マグマに指を突っ込んだ気がした。
黒澱さんの口の中では、さまざまな欲望が煮えたぎり、溶け崩れていた。
《あまい/やわらかい/ねっとり/こりこり/すべすべ/あまい/こいい/あまい/しょっぱい/ねっとり/しあわせ/しあわせ》
――ふむ。
絶無は食べられていない方の手で眼鏡を押し上げ、甘い煮汁のようなその思考を受け止めた。
彼女が自分の指に執着を抱いていることは知っていたが、いやはや、ここまでストレートな挙に出るとは予想していなかった。
熱い舌が、子猫のように絶無の指へと体をこすりつけてくる。
舌、とは、高度に完成された感覚器官である。
認識の相互作用からエネルギーを取り出して生きている悪魔にしてみれば、この行為には何か生命維持に関わる重要な意味があるのだろう。その相手に自分を選んでもらえたのは、とても光栄なことだと思う。
周囲が騒然とざわめき始めた。無粋な連中である。
彼女はそれに気付かない。音も立てずに、絶無の指をねぶっている。靄がかったように陶然とした表情が、とても美しかった。
と、急に黒澱さんは身震いをした。
《え/え?》
目を白黒させながら、周囲に向ける。
……ようやく気付いたようだ。
クラスの蒙昧どもの驚きと好奇の視線が、矢のように集中していた。
途端、嵐のような動揺が伝わってくる。
《みられてる/どうしよう/どうしよう/やだやだ/わたし/どうしよう/みられてる/どどどうしよう》
「よし、取れました」
絶無は彼女の口から手を引いた。指先と唇の間が、透明な糸で結ばれる。
黒澱さんは一瞬切なそうに眉をひそめたが、やがてパニックに陥ってあわあわとあてどなく両手を動かしはじめた。
「急に不躾なことをして申し訳ありません。大丈夫ですか? 口の中刺されていませんか?」
とりあえず、飛来したハチが彼女の口の中に入り込んだので咄嗟に指を突っ込んで摘出した――という設定でごり押すことにした。
すでに濡れた指は握り締められている。
『ごめんなさい。もうしません。』
顔を隠すように、彼女はノートを広げている。
「いえ、僕のほうこそ、申し訳ありませんでした。念のため保健室に行きましょう」
彼女の腕を取って、丁重に教室の外へとエスコートした。
好奇の視線は、完全には消えなかった。
引き戸を閉め、しばらく歩いてから、拳をゆっくりと開いた。
彼女の唾蜜が風に当たり、薄荷のようにひんやりとしている。ずくん、ずくん、と脈拍に合わせて甘い痺れが指先を苛んでいた。
「いつでも、どこでも、何度でも、好きなだけ」
脈絡もなく、絶無は口を開く。
こちらに目を向けた黒澱さんへ微笑みかけながら、
「お召し上がりください。こんな指でよければ」
見る見る彼女の頬が紅潮してゆく。
ふるふるっ、と首を振る。
「そうですか? とても美味しそうに召し上がっておられましたが」
ふるふるふるふるっ。
「僕は今、とてもうれしいのです。ようやくあなたにご奉仕できる事柄が見つかったのですから」
ぶんぶんぶんぶんぶんっ。
「次は誰もいないところで、二人きりでじっくりとご賞味ください」
「~~~~っ!」
彼女はノートを取り出すと、急いた手つきで何かを書きつけた。
『わすれてください。さっきはどうかしてたんです。』
もちろん、絶対に忘れるつもりなどなかった。