見出し画像

夜天を引き裂く #6

  目次

 ――それにしても、自己認識、か。
 人間と、ごく一部の高等生物しか持っていない、特殊な意識のありようである。
 自己認識を持つ生物は、鏡に映った像を自分だと判断できる。「自分がここに存在している」ということを理解しているのだ。しかし、自己認識を持たない大多数の生物は、鏡に映った像を他者だと思い込んで、警戒したり威嚇したりする。彼らの意識には「自分」がなく、「状況」だけがその思考を占めているためだ。
 絶無は、自らの顎をつかむ。
「いったい、悪魔とは何なのですか?」
 悪魔と自己認識。珍妙な取り合わせである。
『わかりません。わたしも悪魔の一員みたいですが、変な生まれ方をしたせいか、記憶が曖昧です。悪魔たちは自らを霊骸装アルコンテスと呼んでいるようです。ここ数年でたくさんの悪魔がこの世界に転生し、何か大きな目的のために動いているみたいです。』
「言葉尻から察するに、霊骸装アルコンテスたちは人間と契約しなければ力を発揮できないようですね」
 こくり。
『ファウストとメフィストフェレスの関係に代表されるように、悪魔が人間を誘惑して力を与えるストーリー類型の大本はここにあります。実際には、力を与えているというよりも、人間の力を借りないと何も出来ないだけみたいですけど。』
 重騎士を思い出す。恐らくあれは霊骸装アルコンテスなのだろう。尋常な人間と正規の契約を結んだ姿があれなのだ。
 脳怪物を思い出す。恐らくあれは眠っている人間とうっかり変則的な契約を交わしてしまった姿なのだろう。
「……ということは、堕骸装アンゲロスは宿主が眠っている間にしか表に出てこない、と?」
 こくこく。
『起きている間にきちんと自分の状況を教えてあげれば、ひょっとしたらなんとかなるかもしれないです。』

 ●

 三日が経った。
 堕骸装アンゲロスの宿主自体は、すぐに見つかった。
 一年D組。秋城ときしろ風太ふうた
 華道部(の名を借りた絶無子飼いの諜報機関)によれば――
 小柄。内気。地味。いじめを受けている疑いあり。成績は下の上。卓球部。両親は共働き。
 心の底からどうでもいい情報ばかりだった。
 現在は街の市民病院で怪我の治療にあたっているらしい
「はいはい、秋城さんは、えーと403号室ですね。さっきもう一人お友達が来られましたよ」
 受付の様子からして、病院ではまだ暴れだしていないようだ。
 それも時間の問題であろうが。
 エレベーター経由で403号室が存在する四階までたどり着く。
 と、ロビーの長椅子に、長身の人物が座している様子が目に入った。
「ふむ」
 日本人離れした白皙の肌に、氷のような白髪が印象的な、若い男だった。両肘を膝の上に乗せ、じっと秋城の病室を睨みつけている。
 獰猛な眼つきだ。左右の瞼から頬にかけて、縦に引き裂いたような傷跡があり、まるで涙の跡か道化の化粧である。
 さっき受付が言っていた「もう一人のお友達」か。しかし華道部のプロファイリングからすれば、秋城風太がこいつのような人種と関わりを持つとは思えないが。
 絶無は、この男の名を知っていた。
 たちばな静夜しずや
 私立孤蘭学院高等学校は一般的にエリート校と言われているが、隔絶された社会は必ずその中で上下関係を生み出し、落ちこぼれの役割を欲する。
 橘静夜もその一人だ。
 どこにでもアウトローはいる。暴力的な噂の絶えないこの男は、畏怖と敬遠の対象である。
 絶無は無言で橘に近づいてゆく。
 青年はこちらに気付き、わずかに視線を流してくる――
 ――瞬間、大きく目を見開いた。
 隠し切れぬ驚愕の表情。視線は絶無に固定されている。
 その時点で、絶無はすでに何事かを察していた。
「……ふふん」
 薄ら笑いを浮かべ、歩み寄る。
 そして橘の前で立ち止まった。
 ――こちらの姿を見ただけで驚愕する理由など、ひとつしかない。
 この不良は今まで「久我絶無は死んだ」と思っていたのだ。
 そしてそんな誤解を抱くには、公園での戦闘現場に居合わせていなければならない。
あの時は取り逃がしたようだな
 まるで天気の話しでもするかのように、絶無は声を掛ける。
「……何のことだ? ここに何の用だ久我絶無」
 鉛のような声だった。うまく動揺を押し殺したようだが、視線を合わせないようでは片手落ちだ。
 橘の手のひらが持ち上がり、自らの胸を抑えた。
 庇うような動き。
 絶無はそのさまを見るともなく見ながら、畳みかける。
「戦闘能力は申し分ないが、追跡術トラッキングは不得手か? 学校をさぼって何をしているかと思えばずいぶん刺激的な毎日を送っているようだな、橘静夜」
 橘は突発的に立ち上がり、身構える。途端に空気が引き締まり、剣呑さを帯びた。
 見上げるほどの背丈だ。しかし巨漢という表現は似合わない佇まいだった。痩身で、手足が長い。鞭のようにしなやかな筋肉が、全身で寄り合わされている。
 絶無は中指で眼鏡を押し上げた。
 ――この男。
 かなり荒事に慣れているようだ。いや、慣れているなどというレベルではない。動作の端々に無理も無駄もない落ち着きが見えた。自らの恵まれた体格を、完全に使いこなしている。明らかに殺害を意図した格闘技能を極めている佇まいだ。
 ――ほんの少しばかり、僕より強いかも知れん。
 絶無は頬を歪め、拳を握り締めた。
 瞬間。
『よしなさい、静夜。その少年はもう我々の正体に気付いているようです』
 かすかなエコーの入った壮年の男の声がした。
 声は、今度は絶無に語りかけてくる。
『少年よ、お初にお目にかかります。小生の名はザラキエル』
 ――何だ? どこにいる?
 姿は、見えない。声だけが滔々とつづく。
『《矜持の座》の第二世代ケルビムとして生を受け、現在は《遊歴の座》に属する悪魔の一柱です。この時代ではサリエルと名乗った方が通りは良いでしょうかね?』
 余裕と品格を兼ね備えた、耳に快い声だった。
 どうやら橘静夜の左腕から聞こえてきているようだ。
「……急にしゃべるな、ザラキ」
 橘静夜は眉をひそめながら自らの左腕を見やる。
 そこには、銀青色の太い手錠がかけられていた。左腕にしか付けられていない上に鎖もない。動きを拘束するためのものではないようだ。
『ザラキエルです。最後のエルが重要なのです。もっと敬意を持って呼んで頂きたい』
 どうでもよさそうに手を振る橘。絶無に鋭い目を向ける。すでに無関係を装うつもりはないようだった。
「……久我、あれからどうやって助かった?」
 認めた。この男が重騎士の正体なのだ。
 絶無は肩をすくめる。
「そんなことはどうでもいい。いま話すべきなのは、お互いの目的についてだ」
 橘は、いぶかしげにこちらを見ている。
「目的?」
「なぜここにいる? 秋城風太をどうするつもりだ? お前の目的は何だ?」
「決まっている。悪魔が表に出てくるのを待ってから殴り倒し、引き剥がす」
 断固とした口調。この男はそうやって正義の味方じみたことをしてきたのだろう。
 絶無は鼻で笑った。
「つまらん対処だな」
「どういう意味だ?」
「お前らは今までそうやって対症療法的に堕骸装アンゲロスを狩ることしかしてこなかったのか? 『また堕骸装アンゲロスか』と言っていたな。あの醜い怪物が何体も出現するその原因を究明しようとは思わなかったのか?」
 少し考えればわかることだ。堕骸装アンゲロスとはその存在自体がイレギュラーのはずである。何しろ悪魔側にも人間側にもメリットが何ひとつない。認識子グノシオンが欲しいなら起きている人間に契約の話を持ちかければいいのだ。あれほどの圧倒的な力、人間からすれば引く手あまただろう。
 それすらできなかった、というのは通常考えられない事態である。
「橘静夜、今までにお前が狩ってきた堕骸装アンゲロスは何体だ?」
「……五体」
堕骸装アンゲロスとして契約せざるを得ないような状況がこの近辺で五回も発生するなど、確率的に言ってあり得ないだろう。何かあるんだよ、秋城風太の背後にはな」
『ほう、なかなか鋭い読み……と言いたいところですが、その程度のことに我々が気づいていないとでもお思いか?』
 鋼の手錠――ザラキエルとやらがかすかな笑みを含ませて言った。
「だったら糸口を見つけてやるよ。これから僕がやることをそこで黙って見てろ」
『ふむ?』
 絶無は立ち上がり、無造作に病室のドアを開けた。殺風景な個室が、目の前に広がる。
 窓から入る光に照らされて、ギプスと包帯にまみれた少年がそこにいた。
「え……」
 アニメ絵のキャラクターが描かれた文庫本を広げたまま、その少年――秋城風太はこっちを見て、固まっていた。
 絶無は中指で眼鏡を押し上げる。
 ――雑魚だな。
 今のわずかな動作から、この少年の実力を見て取る。多分こいつが十人いても橘静夜一人に敵わないだろう。まして、脚を怪我している今では何をかいわんや。
「だ、誰ですか?」
 高校生にもなって声変わりも迎えていないようだ。体格にふさわしい、実に貧相な声である。絶無は無言で少年のそばまで歩み寄ると、おもむろにその腕を取った。
「え」
 親指の付け根を圧迫する。
「ぎ……っ!?」
 声にならない悲鳴。文庫本が床に落ちる。
 すかさずもう一方の手を秋城風太の首にやり、二本の頚動脈を塞ぎにかかる。
「おい久我! いきなり何をしている」
 橘静夜が後ろから肩に手をかけてきた。
「黙って見ていろと言った筈だぞ」
「了承すると言った覚えはない」
「かっ……」
 脳への血流が塞がれ、秋城風太は速やかに意識を失った。
 絶無は橘の手を振り払うと、ポケットに指先を突っ込んだ。
「さぁ、来いよ」
 冷めた目で、待つ。宿主が意識を失えば、堕骸装アンゲロスが姿を現すはずだ。
『無茶なことを……』
 隣で橘静夜が青銀の手錠に手をかけていた。
 ごぼり、と。
 秋城風太の頭が、まるで凹凸のある鏡に映った像のように歪んだ。瞼が引き伸ばされ、眼球が剥き出しになる。
 堕骸装アンゲロスへの変化。想像通り、実に醜い眺めである。
 ごぼりごぼりと、皮膚の下で次々と気泡が湧き出ているかのように、少年の頭部が異形と化してゆく。
 そして、
『……ガイ、ソウ……』
 鋭いエコーのかかった声。橘でもザラキエルでもない。喉で汚泥が絡まっているかのような、不快な声だった。
 瞬間、秋城風太の頭が破裂し、内部からピンクの肉塊が爆発的に膨張しだした。その後ろから、花開くように七本の節足が伸びる。
 絶無は、相手の変化が終わるのを待ちはしなかった。
 おもむろにスマホを取り出し、画面に現れた文面をわざとらしい棒読みで声に出す。
「洞慕町逢音二丁目の3‐14。煉瓦意匠のモダンな邸宅。表札には『界斑』と書かれている……」
 瞬間、堕骸装アンゲロスの動きが、止まった。
「郊外の一等地か。ずいぶんいいところに住んでいるなクズ野郎」
 絶無は口の端を釣り上げた。
 化け物は硬直している。まるで、弱点を知られて衝撃を受けているかのように。
「……どういうことだ」
『どういうことですか?』
 隣で橘とザラキエルが訝しげな目を向けてきたが、無視。
「僕の言うことを聞くつもりがあるのなら、その醜い顔を仕舞え」
 一瞬の間。そして節足と脳がにわかに動きを見せた。巻き戻された映像のように、脳と節足は折りたたまれ、縮小し、秋城風太の頭部へと収まってゆく。
 最後に破裂していた頭蓋が口を閉じ、瞑目した人間の姿を取り戻した。
 ゆっくりと、目を開く。
 途端、空気が、濁った。
 さっきまで見せていた、間抜けな面構えは消え去り、どこか切れ長の目つきになっている。
『……おまえ、いつから気付いていたですか?』
 秋城風太が口を開く。どことなく舌足らずな口調。
 安っぽい駄菓子のような甘みを持った声。
 絶無は肩をすくめる。
堕骸装アンゲロスは宿主が眠っている時に表に出てくる。そして堕骸装アンゲロスに理性的な思考はできない。この二つの情報から考えれば、すぐにわかることだ」
 理性のない怪物が夜毎に行動するのであれば、まっさきに襲われるのは秋城風太の家族であるはずだ。ところが、下僕どもに調べさせてもそんな事実は浮かび上がってこなかったし、家族が惨殺されたとあればもっと大きな騒ぎになっていなくてはおかしい。
 堕骸装アンゲロスとなった秋城風太が殺したのは、自身と接点のない人間だけである。
 ここに、理性的な打算を感じた。堕骸装アンゲロスの殺戮本能とは別の、第三の意志がなければありえない事態である。
 すなわち、秋城風太は何者かによって意図的に操られているのだ。
『たったそれだけで璃杏りあんちゃんがいることに気付いたですか?』
 たったそれだけ、である。わからないほうがおかしい自明の理だ。
 それよりも、
「気持ち悪い喋り方をするな。見ていて救いようがない」
 一人称が名前+ちゃんなどと、生きていて恥ずかしくないのかと思う。
 くすくすと少年の体に取り憑いた何者かは笑う。
『璃杏ちゃんはホントは女の子なんだもん。今は風太おにいちゃんの体を借りてるだけだもん』
「どっちにしろ救いようがない。中学生にもなってあり得ない。気持ち悪い」
『うぅ、おまえ、ひどいですぅ。璃杏ちゃん泣きそうですぅ』
「やってみろよウジムシ。指差して笑ってやる」
「おい、久我」
 重い声が、降りかかってきた。
 見ると、橘静夜は床に落ちたアニメ絵の文庫本を拾い上げ、しげしげと立ち読みしていた。そんな姿ですら、ある種の荘厳さを失わない。太古の英雄を思わせる威容の男であった。
「くだらん罵倒はそのあたりにしておけ。話が進まん。最初に言っていた住所は一体なんだ。なぜ住所を聞いてこいつは動きを止めたんだ」
 絶無は肩をすくめる。これだから思考の鈍い奴の相手は疲れるのだ。
「決まっているだろう。このおぞましい一人称を使う下等生物の住所だよ。下僕どもを駆使して調べ上げた」
「待て久我。どうもお前の言葉には飛躍と要約が多いな。堕骸装アンゲロスを操る黒幕がいると断定する根拠はわかったが、そこからどうやってこいつの居場所を突き止めたのだ」
 この三日間に絶無と下僕どもが行った諜報活動のすべてを語っていたら三十分はかかるので、適当に要約する。

【続く】

いいなと思ったら応援しよう!

バール
小説が面白ければフォロー頂けるとウレシイです。