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シロガネ⇔ストラグル あとがき 下

 キャラ雑感いくぞオラァン。

フィン・インペトゥス

 本作の大目的として「笑えて泣ける」があるわけであるが、では俺はどういうときに泣くんだろうなぁ、と真剣に考えた。そして「子供が、辛い目に遭ってるのに、利他的なことをしていると、泣く」という結論を出した。あのー、アレですよね、その「泣く」ってワイングラスくゆらせながらやる感じの奴ですよね。最低だよね。このナチュラルボーン愉悦部員が。フィン少年が可哀想とか思わないんですか? めちゃくちゃ思うんだよ。なんて可哀想なんだって号泣しながら地獄に突き落としたんだ。そうゆうことを俺はしたんだ。きっと俺は死んでもフィン少年と同じ所には行けない。

 アギュギテムの維沙もそうなのだが、「誰かに甘えることも、寂しがることさえも知らぬまま死ぬ子供」という鮮烈なイメージに俺はだいぶ脳をヤられているのだ。

 本作は主人公に求められる役割を分割し、三人に割り振ったみたいなことをどっかでゆってたような気がするが、彼の役割は「幸せになって欲しいと心から願われること」「敵役を改心させ、救うこと」である。シロガネ⇔ストラグルは打倒ではなく和解の物語であり、王国編もまたフィンとギデオンの魂を救うまでの物語だ。初期の段階で、フィン少年は「自己犠牲を厭わない模範的軍人」としてのペルソナを被っていた。それだけが彼の生きる理由のすべてであり、そうではない人生など想像もしていなかった。それが完全に変わるためには、ペルソナを破壊せねばならなかった。それはつまり彼の生きる意味のすべてを否定することである。だからギデオンに罵倒されてもシャーリィに発狂寸前まで追い詰められても、それはコラテラル・ダメージ。読者を感動させるための致し方のない犠牲というものであり、結論すると俺は悪くない。

 基本的に敵役である〈枢密竜眼機関〉が〈宿命〉を破壊することを企図している以上、フィン少年は〈宿命〉の側に立つことになる。たとえ〈宿命〉こそが彼の運命を悲劇として決定した存在であろうとも、だ。そこにどんな大義があり、そうまでして「物語」とは守られねばならないものなのか。そもそも主人公とは宿命を破壊するものではないのか。しかし「物語」によって最大の被害を被ったフィン少年だからこそ、「物語」の必要性を説く資格があるのだ。これは烈火や総十郎では担えない役割であり、きっと多数の「主人公」が登場する『シロガネ⇔ストラグル』の中で中核を務める根拠となる立ち位置なのだ。

 キャラ的には癖のない良い子であり、なんというか「悲惨な目に遭うことで初めてキャラとして完成する感」がある。そういうのじゃなくて、展開に寄らず単独でコンテンツとして成立しうる厚みと強度を備えたキャラの上で、想定しない悲惨な目に遭わせるべきだったのではなかったか。つまり、こういう少年軍人キャラとなった時点で、読者になんとなく「これからとんでもなく辛い目に遭うんだな」という予感をさせていたのではないか。どこまで行っても「理想化された子供のイデア」に過ぎず、一人の人間としての体重と体臭を持たせてやれなかったのではないか。そのあたりは、帝国編の課題であろうか。課題と言えばもう少し戦術妖精たちと絡ませるべきだったなぁ、という思いもある。

 帝国編ではフィン少年は学校に行くことになる。そこでの出会いが、物語に新たななんかをもたらすことになる。心配でたまらない保護者勢によるストーキング授業参観とかもやりたいですね。

黒神烈火

 物語とは困難を乗り越えるものであり、どれほど強靭な主人公であろうともそれ相応の難度の試練が与えられる。だが『シロガネ⇔ストラグル』において、規格の合わない主人公が規格の合わない世界にイレギュラーに存在してしまった時、何が起きるのか。リアリティレベル高めの現代格闘マンガの世界に空気も読まずスーパーサイヤ人が来てしまったらどうなってしまうのか。そうゆう素朴な興味から烈火は生まれてきた。

元ネタとなったキャラクターは三人いる。『ワンパンマン』のサイタマ氏と、『最強超越者死舞血』の死舞血酒盛氏と、『鏖殺運命』のカルレリオス氏である。このうち三つ目の作品については哀しい事情とともにもはや読めなくなってしまったので俺の哀しみが鬼になった。とんでもなく口が悪く、最低ランクの品性の持ち主だが、やってることはおおむね善行であり、しかし我慢しているわけでもなく思うままに振舞っている。しかしそういう説明ではカルレリオス氏の魅力を一割も伝えることはできないであろう。返す返すも残念である。

 主人公として担わせた役割は「すべての元凶を倒すこと」。魔王第四柱は烈火にワンパンキルさせるために設定したまである。ひたすら口が悪く、傍若無人で欲望のままに動くが、その野放図な生きざまが結果的に周囲を救う星の下に生まれてきた男である。人のために何かしようという意識がまったくないが、それはそれとして感性が根本的に善良寄りなので、欲望のままに動くと結果として善行を成してしまう。そしてそれを貫ける暴力も有している。何がどうなろうと避けがたく幸福になってしまうタイプの人間であり、フィン少年とは対照的でもある。そして〈枢密竜眼機関〉にとっては最大の宿敵となるであろう。彼は己の行いを決して顧みない。ただ欲望を満たし続けるだけだ。

 ビジュアル的な元ネタとしては、『トリコ』は外せない。マッシヴで体格に優れる男のカッコよさというものをあの作品からかなり学んだ。筋肉ってカッコイイな……と心の底から思った作品だった。まぁ、オタク的サブカルチャーに慣れ親しみ過ぎると、「でかくてムキムキ」という特徴は噛ませの代名詞であり、むしろ弱キャラの証であるというような無意識の判断がなされてしまう。そうゆう自分をどこかで恥じながら、「しかしそれはそれとしてマッチョがヒョロガリをボコる話が面白いのか」という如何ともしがたい問題に直面し、様々な方向でのカッコイイを追求したい俺としては忸怩たる停滞を強いられていた。実際烈火もその呪縛から完全に自由とは言えない。本作の敵役トリオは、いずれも実力は烈火に劣るが、それぞれ何らかの意味で烈火に対して戦術的な相性が破格に良い。トウマはノーリスクで行動を封じられるし、ギデオンは烈火の超暴力を自分の力に転化できるし、ヴォルダガッダは今のところ烈火に致命傷を負わせうる唯一の存在だ。そうでなければ頂点の暴力を誇るこの男が一瞬ですべてを「はいドーン」してしまうのである。文字通り、お話にならない。しかし、そのような小手先の技で烈火を押しとどめて、それでこの男を登場させた意味があると言えるのか? お前「チェーホフの黒神烈火」って名台詞を知らないのかよ。

なんだそれは? なんなのだ? なぜそんなに小賢しい。弱いから、つまらぬから、物珍しげな設定をひねり出して、頭が良いとでも思わせたいのか? せせこましい、狡すからい。
理屈臭く概念概念、意味や現象がどうだのと、呆れて我は物も言えぬわ。
それで貴様ら、卵を立てたような気にでもなっておるのか。
能力の相性? 馬鹿臭い。力を使う際の危険要素? 阿呆か貴様ら。
そんなものに囚われるから、超深奥に――座に届かない。
質量の桁が違えば相性などに意味はなく、使用に危険を伴う力なぞは単なる使えぬ欠陥品だ。
少し考えれば稚児であろうと分かることを、己の矮小さを正当化するためにみっともなく誤魔化しておる。
やりよう次第で、弱者であっても強者を斃せるとでも言うように。
そのほうが、さも高尚な戦であるかのように演出して悦に入る。
嘆かわしい。くだらない。なんと女々しい。男の王道とは程遠い。
絶望が足りぬ。怒りが足りぬ。強さにかける想いが純粋に雑魚なのよ。
貴様らのごとき、小理屈をこねる輩が横溢するようになって以来、圧倒的というものがとんと見当たらなくなってしまった。

『神咒神威神楽』より

 せやな……。

 そこで俺は帝国編の敵役を考えた。王国編のトリオとは異なり、真正面から烈火とカラテができる敵役。

◆銀◆主人公名鑑#■【サビイロ】◆戦◆
 ???歳 男 戦闘能力評価:S
 暗黒幻想虐殺漫画『錆血戦域』の主人公。全身から無数に錆びた鎖を放射できる力を持った謎の男。原作は極端に台詞や説明の少ない漫画であり、彼の本名すら不明。ざんばらに延びた錆色の髪に、引き攣れた顔傷を持つ二十代後半程度の風体。凶悪極まる三白眼は常人であれば狂死してしまいかねないレベルの凶気を放っている。両親と赤ん坊だった弟を殺され、以来復讐の遍歴を続けている。彼自身は比較的まっとうな人格者だが、その身に宿れる補正は凶悪の一言。復讐対象以外には自分から手を出すことはないものの、殺意を向けてきた相手には一切容赦しない。自分の運命が誰かを楽しませるための茶番に過ぎぬと知った時、彼の怒りは狂気となった。
 所持補正
・『孤絶の修羅』 因果干渉系 影響度:S
 最強補正たる『無敵系主人公』の効果をすべて持つ。加えて、彼の周囲ではひっきりなしに血なまぐさい対立や殺し合いが頻発し、しばしばサビイロ自身にも火の粉が降りかかる。彼のゆく手に、血と四肢と臓物が飛び散らない日はない。この補正から保護されるのは、彼の旅の相方である「盲いた童女」だけである。
・『■■■■せし■■■』 因果干渉系 影響度:■
 ■に■めた■■のいない■■キャラクターを■■に■きつける■■の■■。しかし『孤絶の修羅』の■■で、その■■はほぼ■■に■みどろの■■を■える。サビイロが■に■たいのは、このことをなんとなく自覚しているためである。
・『■■の■■』 世界変革系 影響度:■
 やがて■■を■■に■くさだめ。サビイロは■■■■■にないが、その■■の■■、■する世界を滅ぼす■■を■■り■せる。■が■■している■■は、■い■■確実に滅び去る。■ひとり、■ひとつ、■き■らない。

 アーカロトと並ぶ、〈枢密竜眼機関〉の最高戦力。こやつが〈盟主〉の歪律領域ヌミノースより出てきた時、黒神烈火という闘神の真価が問われることになる。

鵺火総十郎

 完璧なヒーローとは何か。完璧なヒーローとは、それ自体が矛盾を含む概念である。なぜなら完璧であると言うこと自体が「完璧なヒーロー」性を阻害するからだ。人は完璧なものに共感や好感を抱くことはない。共感や好感を抱かれない者は完璧なヒーローとは言えない。どうすればいいんだ。そうだロリコンにしよう。あほなのかな? まぁとにかく「完璧なヒーロー」という概念への、俺なりの回答が鵺火総十郎である。強く、優しく、聡く、余裕と品格に富み、常に子供の味方に立ち、しかし少々とぼけた一面も持つ。とはいえ王国編の舞台であるオブスキュア王国は、知っての通り子供の数が少なく、総十郎が幼女と邂逅することはほとんどなかった。お前「チェーホフのロリコン」って名台詞を知らないのかよ。帝国編では総十郎のロリコン性が発揮されてフィン少年にドン引きされる展開もやりたいものである。しかし勘違いしてはならないのが、総十郎は決して幼女を性的な目では見ていないということである。もっと観念的な『少女性』に対するクソデカ感情と言うべきか。しかしそうであるなら、こいつ性欲とかあんの? おん? どうなんだ? という話になってくる。これは俺の内部で「ストリートファイターのリュウが童貞であっても非童貞であっても嫌」問題と呼ばれている。そういうキャラ、いるよね? いや……まぁ……しかし……あえて回答するならば、まぁ自発的ではないものの、総十郎側にも拒否する自由はある状況で、自らの責任において異性を愛するという機会はあったのだろうと思う。烈火もそう洞察してたしな。

 大正浪漫という概念について俺は正直浅学な身であるが、『東京物語』なる漫画を読んでにわかに「大正浪漫、ええやん」という気持ちが湧きあがってきた。

 ほのぼのとした牧歌的な世界の中で、二人の青年が正義やイデオロギーのためではなく、子供たちのために東奔西走する物語である。ごく素朴に、いいな、と思った。こんな空気感を描いてみたいと思いながら作中作『シュジュギア -帝都神韻機鋼譚-』を考えたのだ。「子供たちの味方」というヒーロー像は、それまで冷徹に信念を貫くことがカッコイイと思ってきた俺にとっては新しい考え方だった。なんでロリコンにしたんですか?

 ビジュアル的な元ネタとしては、『飛行迷宮学園ダンゲロス』に登場する鵺野蛾太郎氏であるが、この作品で一人称「小生」の書生概念をたぶん初めてまともに認識して「ええやん」ってなったような気がする。

 というか今にして思うと本作はけっこう『シロガネ⇔ストラグル』のアイディア元となる設定が多かったような気がするのでオススメですぞ。

 総十郎に主人公として担わせた役割は「作品世界の問題を解決すること」。すなわちオブスキュア王国の宿阿にして、ギデオンという怪物を生んだ原因たる出産制限と、エルフは善良過ぎて俗世では生きていけないという問題の解決者として生み出した。

「だが一方で、森の意志があったからこそヱルフたちは幸福で満ち足りた暮らしを送り、そして善良な性を守ることができた。小生、この善良さを愚かだ、無価値だ、と断ずることはどうしてもできぬ。物欲を持たず、他者を疑わず、善行を成すことに理由を求めない。それは疑いなく美しい在り方である。本来、世界とはそのような場所であるべきだ。無論、現実はそうではない。だが、だからといって「理想的ではない現実」を無批判に全肯定するなど単なる思考の停止である。我々は常に前に進むことを考えねばならぬ。理想的ではない現実を、それでも少しでも理想に近づけようと足掻く者のみが、「現実」を語る資格を持つ。

 たぶん、このセリフを言わせることができたという点で、総十郎は俺の中に忘れ得ぬものを残していった。作者ながら、この言葉はすごく良いセリフだと自画自賛する次第である。現実主義とは現実を良くしようと努力している者だけが主張して良い考え方だ。しかし、一方で後半になると、「子供たちの味方」性よりも、理性的かつ冷徹な側面が強く出たような気がする。子供たちの味方という側面は、「無敵系主人公」補正によって守られていたがために許されていたことであり、虚飾を剥がされた総十郎の本質はいつもの俺が描くマキャベリズムと功利主義の暗黒面に侵された人物なのであろうか。そうではない、と信じたい。総十郎の正義はその先を行く。これは作者が己に課したハードルだ。責任をもって越える。

シャーリィ・ジュード・オブスキュア

 遥かな太古のことじゃ。古橋秀之という神の一柱が『ブラッドジャケット』なる聖典を出しておってな。

 倫理観を根こそぎ捨て去った積層魔道都市ケイオス・ヘキサの中でしたたかに生きるヒロインの様子が印象的であった。ミラ・ヘルシング。見た目は幼い子供だがママみが深く、主人公アーヴィング少年を溢れる母性で慈しみながら二人仲良くほのぼの強盗殺人とかやったりするわけだ。

 ほのぼの強盗殺人って何?

 ともかく、「母性溢れる幼女、ありますねぇ!」というわけで殿下が誕生した。あくまで見た目が幼いことと母性のギャップが魅力であるのだから、もちろん胸が豊満であってはならない。しかしここで俺の中に葛藤が生じる。フィン少年を両腕で物理的に包み込めるだけの体格は最低限必要ではないのか? いや、しかしそれではギャップが……! みたいな懊悩の末、実年齢百歳越え、外見年齢14歳程度のヒロインが誕生した。

トウマ、シャーリィ、フィンの背丈比較。異様に和む絵面である

 というのも、初期案においては「森に生きる人間の部族のお姫様」だったのだ。しかしあふれる母性に説得力を持たせたいのと、ファンタジー世界における森の少数民族っつったら、「そういう生活様式の人間部族」というやや独自性が高い設定よりも、「エルフ」の一言で説明を省いてしまった方が可読性が良いのではないかと言う思いもあり、オブスキュア王国はエルフの国となったのであった。

 というか元々『アラビアの夜の種族』の「左利き族」がオブスキュア王国のモデルである。

 特に「性愛に対しタブー意識がなく、誰の子供かなどで分け隔てをせずに大人はすべての子供を守り慈しむ」という重要な精神性は「左利き族」から受け継がれたものだ。

 話を殿下に戻すと、フィン少年を救うためにどのようなことをさせるべきかという所から性格付けが逆算されていった。覚悟が決まっていなければならない。フィン少年の「軍人」としてのペルソナを破壊するためには、痛みを負い、命をも差し出せる人間でなければならない。言葉ではフィン少年を救える気がしないので、何も言わずただ抱きしめるヒロインが要請される。英雄召喚の代償として声を奪われたのは、別に設定的な整合性とかではなく「何も言わず抱きしめる」という役割に殉じさせるためである。その結果として、常に主人公の耳元に囁きかけてくるASMR系ヒロインになってしまったが、些細な問題だ。耳かきするシーンがあるのももちろん何の関係もないただの偶然であり、なんだその目は。やめろ。ころすぞ。

 あとこの曲? 歌? が殿下の非常に重要なイメージソースとなった気がする。まぁ本作ラストで一瞬描写された通り、天使化してちょっとでっかくなったフィン少年を前に殿下は母性の体現者であることをやめ、恋する女の子になった。帝国編ではこちらの側面も掘り下げていきたいものである。

リーネ・シュネービッチェン

 殿下が「幼い見た目に溢れる母性」ギャップを狙ったのだから、リーネさんは逆なんですな。溢れるおっぱい!!!! 小学生みてーな精神年齢!!!! 「凛々しい女騎士」とかいう虚飾はペルソナですらなく秒で剥がれ、見事な百七十二歳児となった。殿下との関わりを見ても、どちらが精神的な保護者であるかは一目瞭然であろう。精神年齢が近いフィン少年とは本来最も友達適正が高いのだが、肝心のリーネ氏自身が自分を「お姉ちゃんだ」と思い込んでいるため、この自己認識の誤謬がどことなく中途半端な関係性を招いたような気はする。

 本作を書くまでの自分は、無論のこと豊満原理主義者ではあったのだが、その評価軸は「でかい⇔小さい」という一次元的な物差ししか持っていなかった。しかしそのような単純な考え方では、乳房を真に魅力的に描くには少し足りないのではないのかという思いが湧き上がってきた。もっと多次元的な評価軸を用意することによって、登場女性キャラごとに胸の多彩な差別化が可能なのではないのか。では「大きさ」というパラメータとともに用意されるべきものは何か。「剛性」と「展延性」ではなかろうか。わかりやすく言い換えるならば「柔らかさ」と「弾力」である。

 「柔らかさ」はすなわち母性の象徴である。すべてを受け入れ、柔軟に包み込む性質。当然ながらリーネ氏は母性の体現者ではないので、このパラメータは比較的低めになるであろう。

 「弾力」は反抗心の象徴である。触れてくる手指に対し、なにくそと押し返す気位の高さ。森や、民や、殿下を守る戦闘者たるリーネの精神性は、これを高めにすることで表現されるべきだろう。

 すなわち、スライムめいた液体的な性質を有するものではなく、ある程度の柔軟性を備えながらも強靭な球体として描かれるべきだ。ゆさゆさと形状を保ったまま揺れる描写はこの発露であったわけだ。誤解してはならないのは、「弾力」は攻撃性を象徴していないということである。あくまで物理的なストレスを受けない限り、リーネ氏の乳房はなんら危険なものではない。専守防衛精神の具象化である。

 これだけ大きな、しかも可動する質量がついている事実は、戦闘者として新しい次元のカラテを行使できるのではないかというアイディアを導いた。ギャグと思われがちだが、乳房をカウンターウェイトとしてカラテの原動機とするリーネ氏のバトルスタイルに作者はわりと本気でセンスオブワンダーを感じている。比較的に受動的な存在というレッテルを張られている「おっぱい」に、牙を与えることができた。なかなか痛快ではなかろうか。帝国編では乳房による直接打撃とかも織り交ぜていきたい。

 守りし者ではなく、一人の乙女として、今後何か惚れた腫れたな展開はありうるのか。うん、まぁ、根本的にリーネ氏は人を好きになりやすいタチの人間だが、恋愛フラグとなると難しい。まぁ総十郎か烈火が真面目に口説いてきたらコロっといくぐらいにチョロいが、両名ともそうゆうことを天地がひっくり返ってもしそうにない。フィン少年に対しては無邪気で陽性な「かわいい」一色であり、湿度の高い感情はひとかけらもない。というか作者的には、作中でリーネ氏を特に誰ともくっつける予定はない。強いて言うなら読者の嫁です。

トウマ・クジミヤ

 少年性、という言葉に対し、作者はどこか綺麗で純粋なイメージを持っている。未熟であり、同時に感受性に優れ、世界の美しさや友情の尊さに慣れたり飽きたりすることなく素直に胸を震わせることのできる者たち。いや少女もそうっちゃそうなんだけど、奴らは少年よりも早熟なので、色恋や将来といった夾雑物に早々に絡めとられてしまう。だから「純粋さ」の象徴として、少年は少女に明らかに優越していると思う。

 トウマはそのような世界の住民だ。長野まゆみあたりの雰囲気な。『極彩磁界ユグドラシル』は昔本当に書こうとした作品である。光の三原色になぞらえた三つの電飾師の組織が鎬を削る世界。そこへ本来ありえざる「黒の幽幻電飾」を操る男が現れ――みたいな所まで考えてモチベーション不足で挫折した。本作はその供養めいた意味合いもある。彼は本質的に芸術家であり、戦士ではない。幽玄電飾は元の世界においては敵を直接攻撃できるようなテクノロジーではなかったのだ。そこでは「美しさ」こそが権威に直結する。美しいものは完璧であり、正しい。それが人類の共通認識として合意された世界。しかしトウマはそのような目的論的な美意識に納得できなかった。美しいものが尊いのは、それがただただ美しいからであって、役に立つからでも、権威の根拠となるからでもない。どこか満たされないものを感じていた少年は、自分にまったく興味を示さず、自分が紡いだ幻影にのみ興味を示す少女と出会い、彼女のことを知りたいと思った。

 何のための手段でもなく、ただ純粋に胸を震わせるものを探し求める求道。ギデオンやフィンとの間に築かれた友誼も、ヴォルダガッダに向ける思いも、そのような純粋なものとして描きたかった。純粋な少年性。ジョバンニとカンパネルラのように。この世のあらゆる利害から解放された立場から、透徹した眼差しを、あらゆる人の、あらゆる情動に向けている、永遠の少年。

 闇黒淵やみわだのように深く、魔力結晶のように透明な、その双眸。こちらの心の奥底に、知らぬ間に入り込んで、卑小さや醜さといったギデオン自身が目を背けている痛みの根源にそっと触れて回り、よし、よし、と神妙に頷いている。こちらの誇りも恥もすべてをひっくるめて肯定してくる。
 だが同時に、厳しさもまた言動の中にあった。
 ――あなたはそれでいい。だけど自覚はすべきだ。

 それは俺にとっては、「神」の一種でもありうる在り方だ。トウマ・クジミヤという少年を描く行いは、彫刻家が石膏の塊の中にすでに存在している・・・・・・・・・神の姿を掘り出す行いでもある。自らの信仰を形に落とし込む行い。あるいは、憧れと言い換えても良い。もう俺は収入だか人間関係だか税金だか言うクソどうでもいい茶番に絡めとられてしまった身だが、それゆえにただあるがままに受け入れ、ただあるがままに心を震わせる――そのような在り方に切ないほどの憧れを覚える。

 現実には存在しない「純粋さ」の表象。あるいは純粋な利他。「やれやれ系主人公」という役割の、客観視する姿勢と受容の心が溶けだした魂の擬人化。そうであると同時に、登場人物中最も烈火と漫才する適性が高いことが明らかになってしまったあたりで、きっとトウマは俺の信仰の具象化存在という宿業から解放され、何かもう少し別のものになっていった感がある。

 『極彩磁界ユグドラシル』の世界はサイバーパンクだが、「悪しき未来」という意味付けはされず、重金属酸性雨も降っていない。ポップでキャッチーで、子供たちの純粋性が存在を許され、力を持ちうる世界だ。透明な霧雨の舞い降るメガロシティを、何の目的もなく闊歩するトウマ氏のイメージが、この歌から湧き出てきたのであった。あとは『覚醒都市』もいいね!

 だがその物語が、最後には透き通った美しい悲劇で幕を下ろすと〈盟主〉に知らされたことは、果たしてトウマにとって良いことであったのか。運命に反逆する機会を与えられたのは確かだが、しかし透き通った美しい運命に疑いなく殉じる道は閉ざされた。〈宿命〉の庇護を、同意もなく取り上げられたと言えば言える。〈枢密竜眼機関〉のメンバーは悲劇や惨劇に終わる物語の主人公たちであるが、トウマはその中では比較的穏健派である。果たして彼はこれよりいかなる立ち位置に収まるのであろうか。

ギデオン・ダーバーヴィルズ

 王国編の最重要人物であり、まぁ俺が好きな「冷徹に信念を貫く大人の男」である。基本的に異世界に転移する感じの物語は、なんというか転移してきた側がまれびととして外圧として一方的にすごく、剣と魔法の世界側はただその驚異に圧倒されるだけの存在として描かれがちなイメージがある(実際にはそうとも限らないのかもだが、そういうパブリックイメージが形成される程度にはメジャーである)。しかし「剣と魔法の異世界」とはそんな、「誰もが安心して理解できる土台にして叩き台」としての機能しかもはや有していないのか。かつてそれは「驚異」だったはずだ。現実よりもずっと過酷で、美しく、底知れぬ謎と危険と神秘に満ちていたはずだ。現実と言う名の安全な世界で生きてきた連中に、一方的に翻弄されるばかりでいいのか。ギデオンという男は、そのような思いの結晶であった。彼はメタフィクション的な設定を何も有していない。〈宿命〉によって「主人公」や「ライバル」や「ラスボス」としての運命を与えられたりはしていない。シロガネ世界に純然たる一個の生命として生き、死に、蘇った。それら一連の人生のどこにも、世界内設定の範疇で説明できないものは含まれていない。彼はどこまでもただの異世界人だ。本来は主人公と対峙できるだけの格など有してはいなかった。そういう存在が、最も重要な敵役に収まったということに価値を感じてもらえればと思う。ある意味において〈枢密竜眼機関〉の構成員以上に〈盟主〉の理想を体現する存在でもあったのだ。

 まぁ昨今フェミニズムと言いますと、何やら色眼鏡をかけて語られがちな概念になってしまったじゃないですか(精一杯配慮した表現)。そのあたりの確執はいったん脇に置いておいて、現代の価値観からすればギデオンのフェミニズムは基本的に「慈悲的性差別」の域を出ていないのである。騎士としての道を歩むリーネ氏に対し、敵として殺そうとするのではなく、「少々乱暴に寝かしつけることになるが、構わんな?」などと言うのは、相手の選択と人生に対するリスペクトを欠いた態度だ。しかし貴族の男子は例外なく命を賭けて国や民を守る義務を有するオブスキュア王国の文化において、それは特に責められるようなことではない。異世界人であるだけでなく、異文化人としての側面も描きたかったわけだ。確かに慈悲的性差別は空虚かもしれないが、それは現代の価値観から見た結論に過ぎない。かつてはそのようなものに命を賭けることが美徳であると信じられた時代はあったし、誤解を恐れずに言うなら騎士道的レディファーストと男女同権思想の間に優劣をつけること自体が「異なる文化への想像力」と「自己客観視姿勢」を根本的に欠いた態度であるとも思う。ゆえにギデオンの慈悲的性差別をダサいものとして描く気は一切なかった。

 作中随一の中二の貴公子であり、「凶運を背負いし暗黒剣士」としてもうギデオンの見た目やファッションを決める時は知能指数を果てしなく落として脳直で「ダークでカッコイイ! しゅき!!」ってなるやつを深く考えもせずに決めていった。というかギデオンの元ネタは『白貌の伝道師』の主人公、ラゼィル・ラファルガーであり、最初は読者にダークエルフだとミスリードさせる狙いもあったが、

 果たしてどれだけの読者が引っかかってくれたのやら謎である。もうちょっと邪悪で奇怪な武具の数々を使って欲しかった感もあるが、よく考えたら「我はこの一刀に賭ける修羅」感のほうが中二的かなぁ、という思いもあり、そのアイディアは『葬礼のデックアールヴ』に吸収されていった。

 ギデオンの話に戻る。男としても、父としても、中途半端にしか生きることができなかったという負い目と、幸福であることに苦痛を感じるような魂のレベルで幸せになる才能がない思いつめぶり、そしてその主張が別に的外れでもなく、現実が見えていないわけでもなく、情に篤く、高潔であったがゆえの凶行というどうしようもなさ。読者の「こうすりゃいいじゃん」を塞ぐことに腐心し続けたキャラクターであった。自縄自縛で絶望する男、みんな好きだろ? ゆえにその絶望を正しく理解し「あなたはそれでいい」と肯定するトウマとの友誼は貴重なものであったろうし、「知るかボケが」と一切頓着せずに己の妄執に一直線に邁進し続けるヴォルダガッダの後ろ姿はごく素朴な憧れとして存在し続けることへの希望にもなっていた。なんだかんだ言って出会いには恵まれていなくもなかったのかもしれない。そして、自分よりもさらに多くのものを喪いながら、自分とは異なる結論に至ったフィン少年との、ほんのつかの間の絆が、彼に自身が幸福になることを許した。きっと今後何があろうと、ギデオンはフィン少年の味方であり続けることであろう。それがわかりやすく示されるような展開を描くことになるかどうかは完全に未知数だけれども。

ヴォルダガッダ・ヴァズダガメス

 ダークエルフやオークなどの邪悪種族は「実はいい奴なんですぅ!」みたいな逆張りを一切せずに徹底的に邪悪存在として描いた。女騎士が「くっ殺せ」の「く」の字も言い終えないうちにドタマに斧をブチ込む。そういうオークを、私は書きたい。いや俺は逆張りが大好きな人間だが、逆張りが多数派になった時点でもう逆張りとしての価値を喪い、無様でしかなくなるとも思っている。「実は善良」「実は弱い」「実は美少女」みたいな魔王にはもうウンザリだし、汁男優に貶められたオークは見るに堪えない。牙を抜かれ、首輪をつけられ、尊厳を奪われ、無様に生き永らえるお前たちを俺は心から哀れみ、かつて純粋なる破壊と殺戮の化身だった頃の栄華を体現する存在を生み出した。ヴォルダガッダ・ヴァズダガメス。きっと彼はお前たちを慈悲深くみなごろしにしてくれるだろう。

 ミニチュアウォーゲーム『ウォーハンマー』のオークたちは俺にとってエポックメイキングな存在だった。それまでオークとか聞いても、「あぁ、あの、ファンタジーの、よくいる、雑魚の」みたいなどうでもいい気持ちしかなかったのだが、ウォーハンマーの奴らに出会ってからは完全に見る目が変わった。見てくれよこの、この、頭のてっぺんの高さと肩の高さが完全一致している体つきを!!!! 俺は常々思うのだが、野郎どもの肉体のカッコよさを語るうえで「僧帽筋がどれだけドカ盛りであるか」は極めて重要なファクターだと思うんですな。丘のように盛り上がった首の付け根は、途轍もない鍛錬と思想の結晶であり、女性がいかにストイックに己を鍛え上げようと決して真似ができない屈強にして野蛮なる美の極致なわけですよ。そういう俺の僧帽筋信仰を、現実ではあり得ないほどまでに完璧に体現したこのオークどもの「暴」に満ちた体つきに、うおおおかっこえええええと咆哮せざるをえなかった。まさに虐殺の権化。そしてシルエットを形作るにんにくの球根めいて発達した肩の筋肉の禍々しさよ! 一度これを見てしまうと、人間のシュっとした首回りや肩回りはマッシヴさの表現としてなんだか物足りないなと思えてくるほどである。

 ゴツさとスタイリッシュさを融合させたウォーハンマーオークの身体表現に参っていた俺は、いつかオークを自作にも登場させたいと考えていた。だが、小説の登場人物としてはゴツさだけでは弱いな、とも同時に感じていた。力強いだけでは駄目だ。どこかで知的さや、憂いや、毒刃のような危険さも体現していなくてはならない。

 腕力だけでは駄目だ。腕力は所詮、持ち主が望まなければ惨劇を引き起こすことなどない「制御された力」だ。そうではなく、触れただけですべてを惨たらしく引き裂く暴走した残忍さが必要だ。そういう在り方を見ただけで表すには、オークどもの粗雑な技術による鎧では駄目だ。もっと遥かに高い知性と陰湿さと毒液めいた残虐さを持つダークエルフがこさえた鎧具足である必要がある。武器は巨大な戦鎌がいい。シュっとしたイケメンが持ってもいまどき陳腐すぎてギャグにもならない武器だが、野蛮で屈強なオークが持てば底知れぬ無慈悲さを醸し出せるかもしれない。ちなみに二振りの戦鎌にしたのは、アクションゲーム『ダークサイダーズ2』の主人公、デスさんの影響を受けている。

 この動画の51秒あたりで最初に確認できるのだが、デスさんは二振りの鎌を携えるニュートラルポーズにおいて、両手でそれぞれの鎌を逆手に持ち、その歪曲した刃が彼の背中で交差しているのである。未だかつて俺はこんなカッコイイ立ちポーズのキャラクターを他に知らない。是非ともヴォルダガッダにも同じ構えをしてほしい!!!! そしてデスさんの美し過ぎるスタイリッシュ戦鎌カラテを文章で表現したい!!!! みたいな野望はあった。まぁ、実際にはなかなか、難しいわけであるが、努力の痕跡でも嗅ぎ取ってもらえればこれに勝る喜びはない。

 ヴォルダガッダはオークとしてしか生きられぬ慈悲なき男だが、同時にオークとしての生に満足するには知性に恵まれすぎていた。彼に本当に必要だったのは、冷静に自省と自己認識を促してくれる存在であったが、周囲に低知能殺戮存在しかいなかったことと、殺すことでしかコミュニケーションを取る気がなかったことのために、そのような相手には出会えなかったし、仮に出会えても即殺してしまう。ヴォルダガッダが自己実現を得る道は絶望的かに思われた。ギデオンやトウマとの関係性においては、ヴォルさんがこの二人に与えたものはあったが、この二人からヴォルさんが受け取ったものはマジでひとつもない。この二人に出会わずともヴォルダガッダはヴォルダガッダとして不変であった。自らが影響を受けることなく、周囲の者たちを奮い立たせずにはおかない恒星のごとき質量を有する魂。劇中時点で彼が歪律領域ヌミノースに覚醒したことは偶然ではない。他の登場人物に比べて願いの重みのケタが違うのだ。そしてそのクソデカ渇望に理由はない。なんか生まれつきそうだったとしか言いようがない。なんらかのドラマの果てに殺戮に目覚めたのだとしたら、じゃあそのイベントがなかったら殺戮に目覚めない道もあったのかよという話になってきて殺戮者としての純度が下がる。対象が何であれ、迷いなく全身全霊をもってひとつの価値を追い求める在り方は、善悪を越えた輝きを有するのだ。俺はやはりヴォルさんのそういう姿勢には憧れる。俺は邪念と雑念に満ちた人間だから、結晶のように純度の高い生き様には無条件でひれ伏してしまうところがある。

 だが、そんな彼もついに宿命の相手と出会う。鵺火総十郎。こいつを殺せるなら死んでもいいのに殺せない存在。ギデオンも、そうなろうと思えばなれたのだが、深層心理下ではどうあれ意識下ではヴォルさんを利用することしか考えていないので、殺意を向けられても瞬間移動で逃げることしかしてこなかった。ヴォルさんの殺意を受け止めてはやらなかった。トウマはそもそもヴォルさんと事を構えた場合、瞬殺されるしかない(だって終末の咆哮ワールドイーターの動きは拘束術式では止められないし)。総十郎は初めて高い知性を有し、かつヴォルさんの殺意を受け止め、かつ生き残った存在だったのだ。終極決闘は、実は初期稿では存在しない戦いだった。ヴォルさんは汚染幽骨の巨神として蘇るが、烈火にワンパン粉砕されて出番は終わりだったのだ。だが、俺の中で「それでいいのか」という思いは燻ぶってはいた。というのも、終極決闘がなかった場合、総十郎は強敵をタイマンで下す機会に最後まで恵まれず、ヴォルさんはそのカッコよさからすれば信じられないほどギャグみたいな最期を迎えることになる。そして初期稿を読んでくれた友人から、「総十郎とヴォルが好きだけど、後半この二人が相対的に不遇でしたなぁ」という感想を貰い、一念発起。俺もこの二人が好きなんだよ!!!! その殺意を完全燃焼させずして何が俺だよ!!!! というわけでしんどい=サンに挿絵を描いてもらっている間に俺も気張った。この「お前を殺せるなら死んでもいい感」は完全に『獅子の門』のノリを自分なりに再現しようとしていた。

 切ないほど、哀しいほどに無垢な殺意。良識と理性の徒である総十郎も、ここまでひたむきに想われた経験などかつてなく、絆されずにはいられなくなる。だがやはりここでの主役はヴォルさんであり、総十郎はヴォルさんのカッコよさを最大限引き出すためのサポート役ではあった。二人の戦士が奏でる至高のデュオ。『シロガネ⇔ストラグル』という作品は、フィンとギデオンの相克と和解と救済がセントラルクエスチョンだったはずなのだが、知るかボケ!!!! こんなにカッコイイ二人がクソデカ感情ぶつけ合って殺し合ってんだよ!!!! それ以上に重要なことがこの宇宙にあるかよ!!!! テーマ的に必要かどうかなんて大人の理屈クソ喰らえだよ!!!! そうして宮沢賢治を朗読しながら襲い掛かってくる世にも奇特な一匹のオークはこの世を去った。しかしあの世で延々とエルフの勇者たちとカラテトレーニングし続けているという事実を我々は覚えておくべきだろう。はは~ん、さては幽世を「精神と時の部屋」か何かと勘違いしていなさるな??? いけませんぞ??? 軽々しく死者をよみがえらせては??? え??? 重々しければいいんですか??? おやおやおや???

未来へ

 そうしてえらい長いことかかったシロガネのあとがきもこれにて終わる。本当に、本当に長いこと付き合い、長いこと苦しめられてきたキャラクターたちであった。
 今後の展望としては、アンタゴニアス二部の執筆、アギュギテムの執筆、四部まで書き上げたバス停の現代ナイズ作業などを進めてゆく。一番先に公開を開始できそうなのはバス停だろうか。俺の創作史はバス停以前と以後に分けられるとゆっても過言ではない。ある意味最も重要な作品である。
 それにしても、フィン少年たちとの付き合いがこれでともかく一区切りついてしまうと考えると、何やら寂しいというか、「何者でもない自分」に戻ってしまうようで寄る辺なさを感じる。ここ数年、シロガネを良い感じにすることは人生の最も重要な要素だったのだ。果たして俺はシロガネなき人生をきちんと生きて行けるのだろうか。
 読んでくれた人々、スキを押してくれた人々、感想をくれた人々、そしてキュートでスタイリッシュな挿絵の数々を描いてくれたしんどい=さん。すべての人々に尽きせぬ感謝を。
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