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#162_【近代化遺産】久須保水道(万関運河)

ガイドをしていますと、たまにお客様から、対馬ってひとつの島ではないんですか?と聞かれます。

いくつあるのかといいますと、沿岸や湾内の無人島を含めると108個ありますが(煩悩の数だけ島があると覚えてください)、島マニアの方を除くとおそらくそういうことを聞いているのではないと思います。

対馬島(一番大きい島)が過去に分けられたのですか?、という話です。

対馬島は、歴史の中で2回運河が開削され、現在3つに分けられています。

1回目は江戸時代に開削された大船越。

【大船越です。こちらも普通に漁船が通ります。】

2回目は明治時代に開削された久須保水道(万関運河)です。
万関運河よりも、そこに架かっている「万関橋」のほうがピンとくるでしょうか。

【厳原側から見た万関橋です。】

今回は、久須保水道(万関運河)の話を書いていこうと思います。


なぜ必要とされたのか

日本の西端を防衛するため、海軍が1889(明治22)年佐世保鎮守府を開庁しますが、その前線基地として、1896(明治29)年、現在の美津島町竹敷に竹敷要港部を設置します。
しかし 対馬は南北に約82キロと長く、佐世保から竹敷へ行くには、対馬を大きく迂回する必要がありました。
※江戸時代に大船越を開削したと書きましたが。水深が浅く、軍艦は航行できなかったため、西側の大口瀬戸(美津島町尾崎と豊玉町廻の間)からでないと、要港部のある浅茅湾に入れなかったということです。

【竹敷要港部の跡地には海上自衛隊対馬防備隊があります。】
【城山(金田城)から見た大口瀬戸です。】

そこで海軍は、日露戦争を見据え、佐世保から竹敷に最短距離で水雷艇を航行させるため、浅茅湾と三浦湾の間の久須保に運河を開削する決定をします。

どのような運河だったのか

それでは、どれほどの工事だったのでしょうか。
当時完成された運河の規模を見てみましょう。

☆開削当時の万関運河
完成年 1900(明治33)年
総延長 300m
幅員 22m
水深 3m

長さ300mと聞くと大したことなさそうに思えますが、空撮で見ていただくと、いかに大変な工事だったかお分かりいただけると思います。

【なかなかの高さですねぇ…。】
【橋から見下ろすとこんな感じです。】

しかし、もともと陸続きであったところを、水路で分断してしまったので、南北を行き来していた人の交通を確保する必要が出てきます。水路を越えるためのものですから、橋ですね。
しかしまぁ、これだけ山を崩したわけですから、架ける橋もまたなかなか長大なものになってきます。

☆初代万関橋(久須保橋)
・総延長 100m
・幅員 3.6m
・水上からの高さ 36m
・材料 鉄
・形式 トラス形式の桁橋

余談ですが、近所にある女護島の周辺に、山を切り崩した土砂を埋め立てたため、現在では女護島という地名こそ残っていますが、実際は地続きになっています。
女護島の説明をする時に「島じゃなくなっちゃったよ~」と茶化した話をしますが、山を崩して出た土砂を海に埋め立てるという話は、神戸のポートアイランドなどでも見られますので、意外とムダ知識ではありません。神戸も対馬も、平らな場所が少ないという点では似ていますね。

日露戦争が終わったらどうなった?

日露戦争が終結し、その後1910(明治43)年には日韓併合がありました。
それから対馬はどうなったでしょうか。

佐世保鎮守府からしますと、対馬は朝鮮に対する最前線だったわけですから、朝鮮が自国の領土になったことで最前線ではなくなります。
つまりは、日本軍における対馬の重要度は下がるというわけです。
細かくは触れませんが、竹敷要港部は廃止され、浅茅湾沿岸に築かれた砲台も軒並み廃止されます。

万関に造られた運河と橋も、維持費がバカになりませんから当然お荷物というわけで、海軍省は当時の船越村に橋の撤去又は引き渡しを打診をします。
しかし、国家事業で作られた巨大な建造物を田舎の村に丸投げされても困るわけで、ここから船越村と海軍省のバトルが始まります。

住民側からしたら、水路をぶち抜かれて漁業環境が変わってしまった上に生活路を分断されたわけですから当然文句を言いたくなりますが、海軍省もそれなら一部を埋め立てて道を作りますわという感じで引かず、議論が平行線をたどるなか、村会議員が長崎県をすっ飛ばし海軍省に村で維持管理すると申し出て、こんどは県の役人がブチ切れるというメチャクチャな顛末をたどったようです。

そして、最終的な経過については、町史にもほとんど触れられていませんが、海軍省が管理するということで着地しました。

とりあえず、交渉事では、他人のメンツは立てましょう…f^_^;)。

現在の姿は

先ほどの話からも読み取れるとおり、漁業者をはじめ船に乗る人が多い対馬では、島の中央部を横断できる運河があることが便利ですので、多くの方が利用しています。いまもなお、1日あたり50〜60隻の往来があり、対馬の生活や産業を支えています。

ただ、船が大型化してきたため、開削当時の仕様では通航できない船が出てくるという問題が生じます。
そこで、 1970年から拡幅事業が始まり、1975年以下の通り整備されます。

☆改修後の万関運河
完成年 1975(昭和50)年
総延長 500m
幅員 40m
水深 4.5m

改修されたことにより、700D/W級の貨物船が航行可能になりました。
※D/W:載貨重量トン。貨物の最大積載能力を表します。

そして、1974年7月に韓国と北部九州を結ぶ船舶の要衝として開発保全航路に指定され、国土交通省が保全業務をしています。

【管理カメラで運河の状況を確認しています。】

という感じに、現在も普通に使われている万関運河、万関橋ですが、史跡、廃墟、廃道マニアの方、ご安心ください。
先代の橋やそれにつながっていた旧道の痕跡はありますので、よろしければ探してみてください(o゚▽゚)o。

締め

万関運河ができた経緯は、戦争によるものでしたが、いまに至るまで普通に使われていますので、「これが軍事史跡?」と思われた方もいらっしゃるのではないかと思います。

軍事史跡といいますと、なんとなく色物扱いされますが、竣工当時の時代背景を何らかの形で反映していますし、建造の過程で培われた技術や考え方が現在の技術や生活にもつながっているという一面もあります。

もちろん戦争を美化するつもりはありませんが、対馬には様々な時期に、様々な場所で作られた近代化遺産が残っていますので、また折を見てご紹介していきたいと思います。

交通アクセスなど

万関橋は国道382号線上にあります。
車で、厳原から25分、雞知(対馬空港)から10分、比田勝港から75分です。
厳原側に万関憩いの広場(駐車場・公衆トイレ)があります。
バスをご利用の方は、厳原~比田勝縦貫線に乗車し、「万関」が最寄りのバス停になります。

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