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寄付とはなにか。それは、人間らしく生きる権利を支えるための資金援助。《140字の日記+ 25 (今回は字数超過)》

 「#寄付について考える」の議論、なんだか軸になる方向が見えないなぁ……というのが率直な印象です。

 ……な~んて、上から目線で書きはじめてしまいましたが、かくいう五百蔵も、かつて、「統一教会のニセ募金にご注意!」なんて時代を経験しているから、寄付に対してはあまり印象がよろしくない。
 じっさい自分の生活だってリアルにぎりぎりだから、「うちにもだれか寄付してくれ~……青息吐息……」というのが正直な感情で。

 

 でも、これはそういうみみっちいレベルの問題じゃないよね。

 ということで、五百蔵が刮目した記事をご紹介します。

 

・◇・◇・◇・

 

 この記事を読めばあっさりとわかるのですが、

 つまり、災害支援は【生存権】の問題だということ。

 この視点から紐解いていけば、たぶん、みなさんのなかでもやもやしていることは、ほぼ解消すると思います。

 

 五百蔵のなかでは、いま、いろんなもやもやや違和感が、ぜんぶこの

 健康で文化的な最低限度の生活を守る

 という、日本国憲法のたからかな宣言と紐付いて、総合的に理解されて方向性が見えつつあるんだけど、いまのところ、直感的な映像が見えているだけで言語化はできていない。
 ただ、刻々と移り変わっていく災害復旧の現場で、最も必要な「もの」は刻々と移り変わっていく。そして、その必要なものはすべて、「健康で文化的な最低限度の生活を取り戻すために必要なものを!」という叫びにもとづいて決定されている。

 そう考えると、お金、というものは、その時々の必要性に応じて、物の形にも人手という形にも化ける、非常に使い勝手のいい支援物資である、と断言できる。
 しかも、保管する場所、管理する人手はいらんしね。

 

・◇・◇・◇・

 

 寄付とは「生きる権利」を守るためのカンパ。

 だからこそ、わたしたちは、生の声でつながっている必要がある。
 「被災者」という、わかったようなわからんようなくくりではなく、権利を守ってあげたい人が、いま、なにを思い、なにに悩み、なにが足らないのか、ひととして具体的に見えている必要がある。

 そうでないと、寄付したお金はただの「あわれなだれかへの施し」に堕落してしまう。
 被災しただれかが、ちょっと息抜きにプチ贅沢したことを、たたきたくなってしまう。

 わかるだろうか。
 施しの場合、相手は常にみじめに困窮していないと腹が立つのである。
 しかし、権利を守るカンパは、ふつうにプチ贅沢ができることを、回復の証として、むしろ手を取り合って、涙を流してよろこぶのである。

 五百蔵が「#平成最悪の豪雨」というハッシュタグを作りたかったのは、たぶん、そのへんが野生のカンで感知されていたからではないか、という気がする。

 

 なんだかあらためて、憲法を読み返したくなったなぁ……

 みんな、こまったことがあったら、いったん憲法に立ち返って考えるってクセ、つけようぜ!
 やっぱり、日本国憲法、すげーわ。

  

 

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《ガチで書いている長編記事まとめ》も、よろしかったらご覧ください。
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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。