見出し画像

文章と自分のリハビリ ①(2022年 8月前半)

 只今、こころの充電中につき。
 一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。

 そこは、私にとっては、note から逃避した隠れ家、です。だから、どこのサイトかは探しに来ないでください。
 だけどもしどこかで見かけたら。声をかけずにそっとしといてください。いにしえの仮面舞踏会では、仮面の下の顔は知らぬものとして、互いが手を取り、ダンスしていたように。

・◇・◇・◇・

 

① 鐘の音と円周率

鐘の音。
たった一回撞いただけ、だけど、いつまでもいつまでもずっと余韻が続くのが好き。
限りなく細く、微かにひきのばされながらも、ずっと消えない、音。
 
まるで、円周率がどこまで微小な桁になっても、いつまでもいつまでも割り切れなくて、果てしなく続いていくような。

 梵鐘の音って、どこまで細長くのびていけるのだろう……と、ふと疑問におもって。精度の高い観測機械だと、振動が消失する瞬間が観測できるのかしら?
 円周率もどこまで計算していけるんでしょうね。どちらもはてが見えなさすぎて、ちょっとゾッとします。
 あとですね、音の観測にしても円周率にしても、人間が解明の努力をすればするほど細かいところが見えるようになるじゃないですか。だから、研究すればするほど、究明の終点がどんどん遠ざかっていく一方、っていうのも……。

 

② 唯一無二の運命

気がついたときにはすでに、最初から決まってたことは、私が人間であった、ということ。これこそが、誰もが等しく享けている運命じゃないかしら。
遺伝子レベルとか、最近はやりの脳の特性とか、さらにこまごました《最初から決まってた》もあるんだけど……あ、妻とか母親とか病人とかいう立場はあとづけの属性だけど、

私は人間である

これ以上に力強い運命ってあるのかしら?
生まれた時代、生まれた土地、生まれた家族、生まれた身体、自分からは選べないものにもみくちゃにされながら、本能の命ずるままにただただ反応しながら生きて死んでいく、だけに終わらぬ生き方を、つまり、《最初から決まってた》ことを乗り越えていく生き方を選べるのは、あらゆる生物のなかでも、人間だけの特権じゃないかしら。

うまく世間を渡っていくには絶望的に手持ちのカードが不足している、ってのは、絶対あるよね。
だけど、

貴方も私も人間である

絶望の果に唯一残るこの属性が、これがすべての原動力、この世の最強のカードなのだ、と覚ることができた人は、希望を失わずにすむのだと思う。
まだこの世には存在してない選択肢を切り拓いていく能力がある、これこそが人間に生まれた私たちに《最初から決まってた》ことだから。

 《最初から決まってた》というお題の意表をつきたくて。「ここに集ってるヤツ全員人間」っていうことほど、あからさまに最初から決まってることないじゃん! って。
 最後の「まだこの世には存在してない選択肢を切り拓いていく能力」というのは、個人的な、というよりは、社会のなかに選択肢を増やしていける、という意味です。
 これを書きながら、「革命家は楽天的」といわれるのはこういうことか、と納得しました。

 

③ 蝶でもなく花でもなく

(前段省略)
ユキちゃんなら笑わないわよね、と喜和子が打ち明けてくれたことがある。
彼女が好きなのは蝶ではなく、庭のダンゴムシ。危険なときにはコロリとまるまって身を守り、危険が去ればまたモゾモゾと這い、我が道を行くところが、見た目に似合わず賢明じゃなくって?、と。

 これは創作。お題の《蝶よ花よ》って、まもなく死語になるよな、とおもって。
 そしたら9割くらいの投稿が、本来の意味ではなく、蝶や花への呼びかけの言葉と解釈したものだったので、逆にびっくりしました。

 

④ 成功の条件

「上手くいかなくたっていい」っていうのは、あいかわらず「上手くいくのが標準で、上手くいかないのは例外」みたいな含みが感じられて、ちょっとしっくりこない。
実際のところは、むしろ、実践が成功することのほうが例外なんちゃうんかな。ほら、歪なのも整ったのも、ありとあらゆる四角形の中で、例外中の例外が正方形であるような。実践の成功も、正方形も、踏まえるべき条件をもらさず踏まえてないと成立しない、ってとこがお互い相似形だよね。
ていうことはさ、成功ってそもそも例外だから。
だからこそ、成功率、つまり、例外である成功を確実に成立させる確率だよね、を高めるために、失敗を繰り返しながら努力するのとちゃうんかな。失敗を通して成功のための条件を洗い出し、きっちり身につけるためにさ。
(一部抜粋)

 お題の《上手くいかなくたっていい》という常套的なはげましのことばに、何となく感じる違和感………に食い下がったら、こうなりました。
 で、結論。最終的にはイチローみたくなる、というのを見据えたうえでの《(今は)上手くいかなくたっていい》なら違和感は感じなくなるかな?

 

⑤ 終点の世界

(前段省略)
路面電車の終点って、ある意味始発と兼用じゃん。
さっき終点に着いて仕事を終えた電車が、クルクルクルと行先表示を替えて始発になる。それに一番に乗り込むときの、ガラーンとした車内の感じ。間もなく出発を控えた、栄えある一番乗りなのに、そこはかとなくただよう寂寥。この世界に、運転手さんと私とたった二人だけ。へたしたら、動かない電車の中で、一人きりで、運転手さんが一服から戻ってくるのを待ってたりする。
警笛一声、やっと走り出した瞬間って、これで全てが平常運転に戻るんだ、ってほっとしない?
私は、あの世からこの世に戻って行く感じがする。自分も電車も、終点兼始発から遠ざかるにつれ、生色を取り戻していくような。

私にとっての路面電車の終点のイメージって、この世の果てのちいさな死、もしくは、かりそめの終焉、なのかもしれないね。

⑥ つまり、お父さんになりたかった、ってこと

(前段省略)
お父さんはいつも麦わら帽子だったなぁ。探せばホームセンターのどこかに陳列されていると思うけど、男性用の大振りで、ぺったりとした黒いリボンが巻いてあるやつ。あまりにもぶかぶかで、早く大人になってこれが被れるようになりたかった。でも、そもそも男性用だからね。
いまでも、私の頭にはぶかぶかのはず。

 私は女性なので、「お母さんみたいな大人になりたい」っていうのはごく自然に認識できてたんだけど、「お父さんの帽子を被れるようになりたい」っていうのは、「お父さんみたいな大人になりたい」って思いの変則的な表出だったんだな、って改めて自覚。
 子どもの頃は、帽子=変身アイテム、だったみたいです。

 

⑦ ニールセンを讃えて

あなたの奏でる音楽。
それは、

バッハの数式にもとづく
モーツァルトの天衣無縫

野に響くひばりのさえずり
母なる言語の快活なおしゃべり

生きる希望
まさに、心臓のうたう不滅の歌

人はみな生きているだけでオルゴールのように音楽を奏でているのだけど、
あなたは絵を描くように、この世界をつらぬく普遍性を採譜する。

 この日はテーマが音楽だったから、ニールセンのことしかないだろ、ということで。ていうか、意識は全部ニールセンに持って行かれた。
 何がツライって、クラシックの好きなデンマーク人になら、なんとなく、あーね!、とわかってもらえるだろうに、日本ではニールセンはマイナーだから、ほぼ通じない、ということ……せっかくちゃんとした人物評として書いたのに。

 

⑧ 全部が音楽

自転車に乗ってるときは、耳はふさがない。耳許を切る風の音も街路樹のざわめきも鳥の声も、それから路面電車のモーターの唸りに、大通りをゆきかう自動車の喧騒すらも、ぜんぶ音楽に聴こえるから。
一年を通して一日一日うつりかわってゆく音楽を。二度と帰ってくることのない、今日この時だけの音楽を。聴くことのできるチャンスをのがしたくなかったから、ペダルのリズムを伴奏に、毎日貪欲に耳を澄ましていた。
(一部抜粋)

 創作でもポエムでもなく、ガチでそう思ってます。
 人生長いこと生きてると、自分のクセとか特徴とかが、そのまま最強に個性的なコンテンツになることを発見しました。
 ここからもう一捻りして、架空というか、創作的な世界にもっていけたらいいんだけど、それは苦手。それと、自分の心理分析も兼ねながら書いてるから、当面は創作の方にはあまり寄せないつもりです。

 

⑨ 学ぶのは花から

(前段省略)
自己肯定感とか自尊感情とかが大事です、とか近頃とみに喧しいけど、ぶっちゃけ目指す姿がよくわからないよね。そんなときは自然に学ぼう。だって、いまちょうど、庭にテッポウユリの花が咲いてるから。
長く茎をのばして、ひとりきりですっきりと立って。たくさんつけた蕾をひとつづつ、いま、花開かせている。見られていようがなかろうがおかまいなく、地べたになぎ倒されていようがおかまいなく。
自分は自分として、花開いて、やがて、花は落ちて、雌蕊は種になる。
テッポウユリは、枯れてゆく様さえ、誇らしさを体現している、と私は思うんだよね。

 去年、テッポウユリ(もしかしたら、タカサゴユリかもしれぬ)が芽ぶいて、伸びて、花咲いて、枯れるまで、一部始終を観察しました。今年も、絶賛経過観察中。
 2mくらいまで成長して、真夏の大雨と強風にあおられて、今年も同じ株が地べたに。そして、地べたに倒れたままでも、ちゃんとつぎつぎ花が咲くのには、正直、コイツらエゲツないゼ……と今年もドン引き。にもかかわらず、誇りとか、自尊心とか、そういう言葉の絵としては、凛と立って咲く庭の白いユリの花が出てきます。
 そのイメージをことばにするとしたら、「のびやかに発露する自然」と「他者からのまなざしと介入へのやわらかな抗拒」の同居、かな。よくわからんけど、テッポウユリには、見えない殻を持ってるのを感じます。そのなかで、自分は自分と花を咲かせている。そんなイメージが、お題だった《誇らしさ》とマッチするんでしょうね。

 ほかにも、「トイレの自立、って《誇らしさ》だよね」とか、「家族に対して感じる《誇らしさ》もあるよね」とか、「自尊のための拒絶ってあるよね」とか、アタマのなかでぐるぐるしてます。
 いつか、パン生地のように、くるん、とぜんぶがまとまってくれたらいいんだけど。
 これについてはまだまだ思考中。

 

⑩ 捨てられないのは自信がないから 

捨てることがめっちゃ苦手。だから、家の中にはいつまでも捨てられないものがどんどん溜まっていく一方だ。
例えば、懐かしい書き損じ。着古した子どものお気に入り。さっと捨てちゃえばいいのに。思い入れが深すぎて、せめてあともうちょっと、なにかに使ってあげられないかしら、と手許に引き戻してしまう。
それでも、溜め込んだまま10年も20年も経ったものは、さすがに手放そうかという気持ちにもなるけどね。

このあいだもやっとなにか捨てた。あぁ、ネット上の重た過ぎたしがらみだった。捨てるとは、先にすすむ踏ん切りをつけることだと、そのとき強く思った。
きっと、私の時間の歩みは、ゆっくりなのだろう。だれもがさっと踏ん切りをつけて、さっと始末をつけていくものが、いつまでも手放せないのは。
うまく片付けられなくて散らかった部屋で、これからも、私の速度で生きていけばいいさ。まるで、深海のシーラカンスのようにね。

 むかしも今も、捨てるのは苦手です。これはもう二度と手に入らないかもしれない、と思って、なにもかもが捨てられなくなってしまうタチ。
 結局、捨てられないのは、二度と手に入らなかったら入らなかったで、それなりに切り開いていけばいい、という自信のなさからくるんでしょうね……しょんぼり。

 でも、逆にいうと、不要なものを見極めて、ひとつひとつ捨てていくことは、決断力を養い、ちいさな自信を積み重ねていくこと、ということになりそうです。
 ふむ。ゴミひとつ捨てたら、経験値1pt ゲット! と思えば、私でも断捨離できるかもしれない……。

 

・◇・◇・◇・

 

キリもいいし、だいたい5000文字になったし。
今回はここまで。

こんな感じで、われながら気に入った文章と、自己分析的なものを、つれづれに書いていきます。

 

 

#文章と自分のリハビリ #メンタルヘルス #自己分析 #文章練習 #ひとりごと #エッセー #創作


 

 

 


いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。