見えないけれど、ちゃんと、ある

 義父宅の庭に勝手に設定したスミレゾーンが、花盛りになってきました。

 スミレとの競合が心配だったクレソンみたいなタネツケバナは、先に花期がひと段落したようです。地上高10センチくらいまでの世界に暮らすスミレより2倍もせたけが高い存在は、作業のときはまぎれるのですが、花が落ちたおかげでただの緑の背景となり、視界の邪魔にはならなくなりました。
 来年は、「タネツケバナ→スミレ」のリレーが楽しめるよう、工夫してみるのもアリかなー、なんておもっています。

 

 それはさておき。
 スミレの花が盛りになったおかげで、とんでもないことが発覚しました。

 す……スミレゾーンに、飛び地が……ッ!

 そうなのです。
 そこにはスミレもなさそうだったし、もうドクダミ畑でいいや、とほっといたところだったんですよ。だけど、スミレの花が3つ、4つ、と顔をのぞかせている!
 そして、のさばりつつあったドクダミの葉を摘みとってみたら、下にはちゃんと、スミレが茎をのばし、葉をひろげて、意外なほど広い勢力を確保していたのです。

 咲かなければ見えてなかった。けど、咲いたから見えた。

 「花」という目印がついたおかげで、スミレの存在が「見える化」されたわけで。

 なにこれ。
 いないいないばぁの使用前使用後みたいなおもしろい感じ。

 自分の脳のなかの使用前と使用後を往復すると、ただそれだけで、面白くてなりません。

 

・◇・◇・◇・

 

 春が来たから存在が見える化されたもの、はほかにもあります。

 たとえば、憎っくきセイタカアワダチソウ。
 去年、地面から葉っぱを生やしているのを見つけるたびにぶちきっていたので、真夏すぎだったかには姿が消えていました。だけど、地面から上をちぎっただけだったので、季節の訪れとともに、当然、芽が出てきましたね……今春も、全力バトルの開始です。

 クズも、去年の梅雨明けからは姿を消していたのですが、これも地面から上をとりのけただけだったので、またぞろ、芽がにょきにょきと。そもそもクズの芽なんて見たことなかったので、去年は「なにがでてきたのか、楽しみだな〜♪」なんてわくわくしながら育ててしまったので、あとが大変でした。
 今年はもうすでに、おひたしにして2、3回は晩ごはんにできそうなくらい大量に引きましたが……まだまだ続々とはえてきています。

 で、どちらも、「春が来て芽が出たから、根がそこに生きていることが見える化された」わけなんですが(それと、去年の駆除が不徹底だったことも見える化された……)、だからといって芽を引いてしまうと、再び、どこに根があるか見えなくなってしまう。

 うーん……これはちと、まいる。

 「育つと困るから引くけど、芽がでてないとどこに根が付いているのか見えなくなる」というのはなかなか悩ましいです。今年は、セイタカアワダチソウについては、目印にペグを打って、見える化しておこうかと考えています。
 クズについては……これもペグを打って、地下にどんなふうに根が張っているか見える化してみたい気もするんだけど、とにかく数が多すぎるので、どうにもなりません。

 

 さて。
 セイタカアワダチソウにしろ、クズにしろ、ちゃんとやるなら根っこから対処しないことには、どうにもならないんですよね。だけど去年は、「しゃがむ」という動作ひとつにしても、精神行動抑制がかかってしんどかった。屋外に出るだけで頭がぼーっとしてたので、作業に集中してとりくむ、というのもむりでした。ましてや、土を掘りかえすとか、できる状態ではありませんでした。
 去年のいま頃は、いかんせん、はさみを手にするだけでも精神的な抵抗がおおきかったので、できたとしても「見つける→手でちぎる」という、情報処理としても作業工程としても、直線的で単純なことがせいぜいでした。

 だけど今年は、道具を手にするのも、「土を掘る」というちょっとめんどくさい作業をするのも、抵抗感が少なそうです。
 もし、ちゃんと土を掘って、1ミリでも長く根がのけられるようになってたら、うつが去年よりもよくなってきたことのあかしになります……これもまた、ひとつの「見える化」といってよさそうです。

 

・◇・◇・◇・

 

 ビジネス系の記事では、よく「〇〇を可視化する」というフレーズを見かけます。視覚化、可視化、見える化、とそれぞれ守備範囲はちがうらしいですが、そこは今回はちょいとおいといて。
 それら、ビジネス文脈の「見える化」系のことばに対し、とある現象が芽吹いて、そこを手がかりに「いままで見えなかった存在や変化」を確認する。スミレの花や雑草の芽生えのような「見える化」は、また、ひとあじちがった手触りがあります。
 これは、本来は、「顕現」と表現すべきなのだとおもいます。ですが、「自然との対話のなかで、自然からの合図を受け止める」わけですから、やはり「自然が見える化しておしえてくれた」というほうが、しっくりきます。

 一般的な、人間の手による「見える化」が、血液検査やレントゲンやらを投入して、草の根わけても病変を発見する西洋医学的アプローチとしたら、後者のような、自然のなりゆきによる「見える化」は、脈の変化や発熱の具合といった、外にむけてあらわれたきざしを手がかりに、中の不調を知り、鎮めていく東洋医学的アプローチ、とたとえられそうです。

 見えない敵、新型コロナウィルスと世界が戦って、ついに1年たちましたが、これも、「見えないものを見える化する戦い」だったのかもしれません。
 「発症する」というのが、スミレの花が咲くような、自然の発現によるウイルスの存在の見える化だとしたら、「検査」は緑の雑草に埋もれた、いまだ花咲かぬスミレの葉を探すような、もしくは、見つかった花の種類を確定するための見える化、人間の努力です。
 日本独自といわれたクラスター対策は、「咲いた花を手がかりに、その周辺にあるまだ花が咲いてない株を探す」ようなものだった、と理解していますが、そうたとえると、その手法のユニークさが際立って感じられます。だけど、「咲いてから検査する」は、「咲かないと検査しない、検査できない」の裏返しなわけで、もうそろそろ、わざわざ咲かせて種を飛ばすのを待つまでもなく、開花前に発見し、摘みとって咲かせず、抑え込む手法に切り替えてもいいのではないか、という気がします。

 「失敗」や「失言」も、見えないれど存在していた不都合を見える化してくれます。不都合の根があったからこそ、ここ最近相次いだ、社会的地位の高い保守系男性の失言という、ヤバい花も咲いたわけで。
 だけど、逆に見れば、失敗も失言も、それにより見える化された不都合を根こそぎ取り除くチャンスととらえると、あながち悪い事ばかりではないですよね。

 そうそう、子育ても。
 思春期は、子どもが大人になってきたことを、体つきだけでなく、態度や行動でも、見える化して伝えてくれます。
 結局、思春期の問題って、子どもは自らが成長するままに、勝手に変化していくだけなので、子どもの変化に応じて、親が、親自身の態度や行動を変容させられるかどうか、なのですよね。
 で、変容が適切でなかったら、めっちゃ反抗されるわけでして。さらにいうと、この反抗的言動だって「子どものなかの嵐の見える化」なんですから。親としては、あいつちょーむかつくー……と怒ってばかりもいられない。

 ほかにも、紅茶のお湯のベストタイミングとされる「コイン大の泡」というのも、「たった今、100℃に達した」ということの見える化だし……自然のなりゆきを、見えない存在や変化の「見える化」、ということばでくくり直してみたら、まだまだいろいろな「見える化」が見つかりそうです。

 

・◇・◇・◇・

 

 でも、ホントに面白いのは。

 見えざる存在や変化が「見える化」されたとたん、
 一瞬で世界の見え方も変化してしまう、
 人間のアタマのなかのビフォアアフター

 かなぁ……(〃∇〃)

 

 

 

 


いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。