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文官?それとも軍人?劉曄(りゅうよう)を紹介

ども、ただのオタクです。
最近めっきり暑くなりましたね。
ついこの間まで周りは長袖で俺だけ半袖だったのにって思います。
やっと俺だけ浮くことが無くなったと喜ぶ今日この頃です(笑)

その前にnoteの投稿が久しぶりになるんですが中々に忙しくて…
今回からまた頑張って投稿していくので見放さないでください(泣)

さて今回は三国志の魏史「程郭董劉蔣劉伝」の「劉曄(りゅうよう)」という人物を紹介します。
因みにこの人物も荀攸(じゅんゆう)と同じくらいの能力があるが徳業が無いと称されています。
つまりこの一まとめにされている人物たちはみんなそんな感じなんですね。

ーー劉曄が曹操に仕えるまでーー

実はこれまであまり呉だとか孫策(そんさく)・孫権(そんけん)に触れては来なかったんですけど、今回初めて関わりがある人物を紹介することになります。
というのも、劉曄の出身は揚州(ようしゅう)で三国に分けると呉に属する地方になります。
現代の日本でいう関西地方の大阪府みたいなものですね。

ちょっと話が逸れちゃいますが、正史に最初に記されているのは実は7歳の頃で生母が病気で亡くなってしまいます。
その際に遺言で「貴方の父に仕える従者の1人が奸臣でいつか裏切るでしょう。その前に殺しなさい」という遺言を遺します。
これを13歳になった時に実行しようと兄である劉渙(りゅうかん)に相談しようと考えますが、劉渙はこれに否定的で逆に劉曄を諫めます。
しかし、劉曄は一人で実行し母の遺言で通りに従者を殺します。これを知った劉渙は劉曄を非難しますが、父は劉曄の思いを汲んで劉渙を諫めて劉曄に咎めることは無かったと言います。
これを聞いた許劭(きょしょう)という当時の人物評論家が劉曄を「冷静沈着で豪胆な人物」と評しました。

そして次に登場する際には揚州全域に勢力を拡げようとしていた鄭宝(ていほう)という人物がいました。
これを討伐する計画が立てられますが、その頭領として家柄も良かった劉曄が挙げられます。この際に親友でもあり後に呉に仕える魯粛(ろしゅく)という人物に事前に手紙でこの計画の危険性を指摘されていました。
それもあって今回の計画には劉曄は参加しませんでした。
一連のこの流れを逆手に取るというか討伐計画に参加しなかった劉曄を信頼してか、劉曄は鄭宝を酒宴に招き、鄭宝は疑うことも無く参加を決め宴会場に向かいます。
結果劉曄自らの手で殺すことになりました。
ところで、この一連の事件ですが、呉の魯粛も個人で列伝を立てられており魯粛の伝にも同じ一連の事件は載っていますが、実は微妙に内容が違います。
今回は劉曄の記事なので劉曄に書かれている内容で紹介させていただきました。

揚州に入った孫策ですが、揚州に赴任している各太守と真っ向から対立することになりその一人に劉曄もいました。
廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)という人物と共闘して孫策と戦います。そして、劉曄は孫策の調略を看破しやぶりますが、劉曄から策を授かっていた劉勲はそれを無視してしまったが為に敗走してしまいます。
その後、寿春(じゅしゅん)というところにいる武将を討とうと曹操がやってきます。その時期に揚州から仕える人物を募集にかけ劉曄もその募集に応じて曹操の幕僚に入ることになります。
因みに同じ時期に曹操の幕下に入った人物は蔣済(しょうさい)や胡質(こしつ)という人物がいます。

ーー曹操に仕えてからーー

曹操の幕僚に入ってから表舞台に出てくるのは漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を討伐に向かう時です。
後々蜀の諸葛亮(しょかつりょう)も苦戦することになりますが、糧道の不安定さに魏軍の糧食が不足してくる事態が起きてしまいます。
この際に撤退をしようとする曹操に、このまま戦を続ければこちらに有利で、撤退するなら追撃などを受けることになるでしょう。と進言これが容れられます。
結果的に劉曄の言った通りになり張魯は降伏することになります。

戦後の後処理が終わった後になると思われますが、この先進退を決める会議が開かれます。
司馬懿(しばい)と同意見でこのまま益州(えきしゅう)深くに攻め入り劉備(りゅうび)を倒すように進言します。しかし、却下され漢中を夏侯淵(かこうえん)・張郃(ちょうこう)に任せて撤退します。

その後まもなく、「樊城(はんじょう)の戦い」というが始まって終戦後、蜀の孟達(もうたつ)が降伏してくることになります。
時間が経ち曹操も崩御。曹丕(そうひ)の時代になると孟達の忠義心の無さを指摘しいつか裏切るだろうと進言しますが、これを聞き入れることなく孟達を優遇することになります。

劉曄はさっき書いた通りに張魯の動向だったり、劉備を早めに潰しておくべき、孟達の忠義心の無さを指摘。
それからも、関羽が戦死した後に劉備が報復に動くだろうということも予見し、
一般的に言う「夷陵(いりょう)の戦い」が始まると呉が臣従するという使者を寄越してくる事件が起き、これは方便だという指摘を劉曄はします。
こう考えると劉曄の大きな武器は簡単に言うと「人物眼」だと思います。君主の動向だったり性格だったりを考慮して軍略を考えてる参謀と言えます。

ーー謎の最期と、三国志演義での劉曄ーー

これまで紹介した人物の中で遅めの仕官とはいえ君主に進言を容れられる功績を幾度も出す重臣ではありました。
しかし、最期と言うのははっきりと記されてはいません。ここだけを捉えると謀殺されたのかと考えてしまいます。
曹叡(そうえい)の代には仕えていた記録はあります。

曹叡が即位したあとすぐに、特別に謁見される許可が下りるという優遇措置が取られました。
退室後、他の廷臣に今の帝はどうだ?と質問されます。ということは人物を評価するという点では他の廷臣からも定評があったと思われます。
因みにその際に「始皇帝・漢の武帝(ぶてい)の風格があるが、この2人には僅かに及ばない」と評しています。
漢の武帝というのは劉徹(りゅうてつ)という人物で後々紹介したいなと思っています。簡単に言えば匈奴(きょうど)という異民族を初めて勝利を収めた皇帝です。

曹叡は蜀の討伐を計画していた時があり、その際に劉曄を謁見させ意見を求めます。
劉曄はこれに賛成しますが、他の廷臣には蜀討伐には反対だと漏らします。
これを聞いた曹叡は再び謁見させ、どういうことか訳を聞きますが、無言を貫きます。そして、ついに劉曄が口を開き「外征は国の大事、軽々しく喋ることではございまぜん」と国家機密の重要性を曹叡に説くことになりました。
この一連の事件の後も出世しますが、知らぬ間に表舞台から去ることになります。

一説ですが、自分の心情を固く秘密にする人物である劉曄であったために、ある廷臣に嫌われていました。
曹叡にその人物から諫言されることになります。
「陛下は劉曄に自分の考えとは反対の意見を与えてください。劉曄が反対意見をすれば陛下の意に添っており、賛成したら劉曄の心中は明らかです」と諫言します。
果たして劉曄はこの通りに進言してしまった為に曹叡からの信頼がなくなってしまったと言います。
これが本当なら表舞台から静かに消えた理由はこれかもしれませんね。

初めて紹介する人物の子どもを紹介しますが、劉曄の後を継いだのは劉陶(りゅうとう)と言い、曹爽(そうそう)という人物に与します。
大分先になると思いますが別の記事で紹介させていただきますが、司馬懿との闘いに敗れて曹爽は失脚することになります。
最終的に劉陶は司馬懿の後継である司馬師(しばし)に付き、毌丘倹(かんきゅうけん)という人物を討伐する軍に従軍します。その際に受け答えがはっきりしないという理由で処断されてしまいました。
劉陶以外にも劉曄の子どもはいたので子孫断絶ということにはなりませんでしたが、冷遇された可能性はあると思います。

三国志演義では、郭嘉に推挙されたということになっており、正史より早い段階で仕官しています。
話は前後しますが、正史で劉曄の字は子揚(しよう)と言い、演義での字は子陽(しよう)という設定になります。
というのも劉子揚(りゅうしよう)という別人が登場して、最初の魯粛との一件は全部この人物がやったことになっています。
そして、魯粛との友人関係と言うことも無かったことになっており、その代わりに曹操に「霹靂車(へきれきしゃ)」という物を作り出すという功績をあえることになっています。

今回は呉や蜀の話も混ぜて紹介させていただきました。
蜀や呉に主題を置いて紹介させていただくのはまだ先になりますが、この2つの勢力が好きな方には申し訳ないです…。
よくよく考えたら前漢の人物とかも合わせて書いちゃってるんで余計に時間がかかってますね。
今後の方針も改めて考えようかなとも思います!

というわけで今回も記事を気に入っていただけたらいいね。フォローよろしくお願いいたします!!!!

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