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その可能性は低いがゼロじゃない

 うちの近所に川がある。さほど川幅は広くないが、川床に遊歩道があり、100本ほどの桜並木もある。桜が散る頃になると、おれはいつも片肌脱いで「この桜吹雪が眼に入らねえか」と言いたくなる。時代劇にしか心が躍らない年寄りなのだ。
 景色が美しく車や自転車の心配がないせいか、ジョギングをする人も多い。年寄りらしく散歩などをしていると、ハアハアなどと卑猥な息づかいの女子大生が走るのに出くわす。近くに女子大があるのだ。つい後ろを付いて走りたくなるのである。歳をとってもスケベ心はまだまだ健在だ。
 で、今日も散歩をして気がついたのだが、ジョギングをするその多くの人が、イヤホンをつけて走っているのである。
 おれは、そういう連中を見て憤慨する。彼らは、イヤホンを付けて走ることの危険性を、まったくわかっていないのだ。
 そう言えば、村上春樹が「走りながら聴く音楽はロックがいい」などと書いていた。何を馬鹿なことを言っておるのだ。そんなことを言ってるから、万年ノーベル文学賞候補なのだ。おれは、村上春樹がいるであろう方向に向かって叱責する。反省したまえ!
 言うまでもなくランナーは、常に耳を澄ませて走るべきなのだ。
 都会は、危険で満ちている。アクセルとブレーキを間違える車や後ろから迫りくる電動自転車、頭の足りない連中が乗る電動キックボード、さらには道を広がって歩く女子高生の存在に気を配らなくてはならない。
 特に、女子高生の群れに間違って突っ込んだりしたら、最悪である。
「チカンや」「尻、さわられた」「私は、乳、さわられた」「犯人の写メ撮ったで~」「よっしゃ、SNSで拡散や」
 人生、終わりなのだ。
 田舎を走るランナーも油断はできない。気の立ったイノシシが太ももの動脈目がけて突進してくる。クマはその巨大な爪で顔面を剥ぎ取り、空中からはスズメバチが襲いかかってくるのである。さらには、曲に合わせて鼻歌などを歌いつつ、クロスカントリー気分で田んぼを走ったりすると、肥だめに落ちて糞尿におぼれることになる。そんな死に方はゴメンだ。
 このように走るという行為は、命がけなのだ。常に五感を働かせていなければならない。耳からの情報を遮断するのは、極めて危険であり、自殺行為といっても過言ではない。
「おれは一般開放されてる競技場を使ってるからね。景色は単調だけど、走りやすくておすすめだよ」
 いやいやいや。何を馬鹿なことを言っておるのか。競技場だからといって油断はできない。いや、むしろ一番危険なのが競技場だと言っても過言ではないのだ。
 ボーッと走っていると、やり投げの槍が飛んできて脳天に突き刺さる。砲丸投げの鉄球が頭にぶつかって頭蓋骨陥没だ。槍やら鉄球やらが飛んでくるなど、危険性は、戦国時代と変わらないのである。
 それだけじゃない。競技場では、もっと怖ろしい事故がある。
 全力疾走するウサイン・ボルトがぶつかってきたらどうなるか。全身打撲で死ぬのである。あの巨体で、あのスピードでぶつかられたら、手足がちぎれるのではないか。
 ヘッドホンを付けてさえいなければ、「危ないっ」「うしろうしろ、ウサインボルト!」という回りの人の声を聞き取ることができて、危機を避けられたのである。
 音楽を聴いていたばっかりに、命を落とすのだ。80メートルほど飛ばされ、空中でくるくる回転しながら人生最後の走馬灯を見ることになるのだ。
 まあ、「ウサイン・ボルトにはねられて死亡」というのは、市民ランナーにとっては名誉なことなのかもしれないが。
 なに!? そんな漫画みたいなことがあるわけないだと? 呆れかえるほど頭の中がお花畑だな。君の脳内は、チューリップが満開か?
 例え確率が低くても、ゼロでない限りは起こりうる。それが危機管理の原則なのだよ。よく覚えておきたまえ。
 そんなことをブツブツつぶやきながら歩いていると、何やら前のほうが騒がしい。目を凝らしてみると、ジョギングをしている連中が、こちらを見て何か叫んでいるようだ。
 耳をすませてみると「うしろうしろ、ウサイン・ボルト」と聞こえるではないか。おいおい、こんな川縁の遊歩道にウサイン・ボルトがいるわけがないだろうが、そう笑いながらも後ろを振り返ってみると、そこにはウサイン・ボルトがいて、おれをめがけて急速に迫って来るところだった。
 もし、桜散る季節なら、褐色の肉体の回りは無数の花びらが風圧で舞っていたことだろう。突然の危機に対応できないおれは、それを見ることができないことに「残念だなあ」と呆けたようにつぶやいた。
 そして、ようやくおれは気づいたのだ。ウサイン・ボルトの前には、イヤホンの有無など関係ないことに。このスピードでは、避けることなど不可能だ。常人の思考力は、彼のスピードにはとても追いつけない。
 おれは、驚異的な衝撃とともに宙を80メートルほど飛ばされた。回りの景色がくるくると高回転している。いや、回転しているのはおれなのか。
 確かに確率が低くてもゼロではない限りそれは起こりうるな、とおれは薄れゆく意識の中で思った。



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