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お道の女性について語ろう1

過日、修養科に通う方から「天理教には男尊女卑の思想が根強く残っている」との指摘を受けました。修養科講師の何気ない言葉からそう感じたらしいのです。
それが事実であれば、教祖が幕末の封建社会において「人間の価値に男女の差は無い」と高らかに宣言したこの教えにあって、由々しき問題ですよね。

この機会に天理教の女性観についてちょっと考えてみましょう。
天理教公式WEBサイトでは天理教の男女観について「『女松男松の隔てなし』というのが原則です。どちらか一方が従属するというような考え方はなく、人間創造のときから同等です」と、述べられている。

『みちのとも』昭和13年9月号に、婦人会創設当時の思い出として

「御母堂様(初代真柱夫人)にはいつも婦人の役員方に、男松女松のへだてはない、と神さまが仰せ下されたからには、女やからといつていつ迄も男にぶら下つて居るやうではならん。良人(夫)の光によつて光つて居るやうでは良人が居なくなれば光らんやらう、自分で光を出さねばならん』とおさとし下されました。この精神の表はれが、幼稚園、託児所、養徳院の建築で、設計から工事の監督、設備万端まで役員の手でおさせになりました」

『みちのとも』昭和13年9月号

という記述があります。当時の女性たちの熱量と力強さを偲ばせる記事ですね。
明治43年1月28日の婦人会創立の約1年前に天理教は一派独立を果たしています。旬の息吹を受けて、その後早々に婦人会が創立されていることを考えると、当時の婦人会はまさに騎虎の勢いであったと想像されます。
この点について堀内みどり氏は

戦前天理教教団の大きな発展期に、男女を上下や主従の関係として見る性差別が改められたと同時に、女性信仰者は、布教上の脇役ではなくて男性に負けずに布教一筋に努力していた。

『〈道の台〉と女性』

と述べています。
ところが、明治政府による女子教育の方針の浸透と、複数回の戦争の時代を経て、

御教祖は神憑以前に、良妻賢母とし又一家の主婦人として、偉大なる事跡を現しておられる。

『みちのとも』大正12年5月号

一家庭の土台としてのつとめのために生まれさせて頂いた婦人は、この時こそ土台としての使命に完全に生かして頂かねばなりません

『みちのとも』昭和15年3月号

という記事が象徴するように、道の女性は家庭の土台であると強調され、前掲の婦人会初代会長の言葉からおよそ30年後には、すでに「乖離」が見られるのです。 
こうした天理教女性観やその変遷については教内外の学者による優れた研究論文が存在しますが、その中で金子珠理氏は戦後の天理教教団の女性観が伝統的性別役割に戻ってしまった現況に対して批判の立場を取り、「『道の台』の思想は近代的な性別役割分業観に立つ良妻賢母思想に呼応して、『生み育てる』役割という母性を強調する意味に転化し、『女は台』という言葉が定着した」としています。
一方で教内学者の重鎮である飯田照明氏は

親神が天と地をかたどって夫婦を創造したことを通じて、男性原理・父性原理および女性原理・母性原理が定められ、これが天然自然の姿である」と主張し、「女性解放は、もしそれが性差を無くし母性を否定してしまうならば、反自然的であり親神の創造の秩序に反することになる。  

 天理教青年会編『あらきとうりょう』161号

と述べ、同じく教内学者の森井敏晴氏は

男性と女性はその出現の仕方と在り方が、性別役割に応じ天与のものとして自然に決定され、その決定によって男と女の生物学的仕組みが構成されている。

森井敏晴氏は『神・人間・元の理』

と述べています。
男性の役割、女性の役割という固定化は、果たして神意を反映しているのでしょうか。
こうした固定化こそが、金子氏が指摘する

彼女たちお道(天理教)の女性の多くは、職業女性でも専業主婦でも、『子沢山』ということをさほど苦にせず、むしろ誇りに思っているようなのである。まさに『子供を生み育てる台』という女性の機能でありかつ役割を楽しんで引き受け、生活しているようにも思える」という現象を生み、「天理では結婚しても子供をあえて作らないという女性ないし夫婦は、たとえ善意にせよ世間以上の圧力を受けることになる。

『〈女は台〉再考』

という問題を生じさせている気もします。

さて、ここからは天理教の教会に嫁いだ女性の『現実』に触れてみます。
まず金子氏の

「『子沢山』ということをさほど苦にせず、むしろ誇りに思っているようなのである。まさに『子供を生み育てる台』という女性の機能でありかつ役割を楽しんで引き受け、生活しているようにも思える」

という指摘ですが、確かにこうした教会長夫人は存在します。しかしそれはある一定の条件を満たした教会でのことであり、全ての教会長夫人の実態を表すものではないと思われます。
恐らく金子氏は大教会もしくは数多くの信者を有する教会の夫人を見て述べているのではないでしょうか。何故なら多くの子を産み育てるためには、それが許される環境と経済力(原資は信者による御供である)が必要なのです。教育費が高騰する現代にあっては尚更のことで、下世話な言い方をすれば、産んだ子供に社会通念上基本的な教育を与え、健全に育てていくことが経済的に困難な教会にあって「次から次に子供を産む」など考え憎いことなんです。(そういう教会もあるにはありますよ)
また一方で、望んでもなかなか子供を授からない教会長夫人や後継者夫人が感じるプレッシャーは相当に厳しいものがあります。時にそれは夫人自身の信仰的未熟さや心得違いの指摘という形で夫人を追い詰めます。これは夫人が不妊症の場合でも同様です。

金子珠理氏や堀内みどり氏は婦人会創設時の「戦前天理教教団の大きな発展期に、男女を上下や主従の関係として見る性差別が改められたと同時に、女性信仰者は、布教上の脇役ではなくて男性に負けずに布教一筋に努力していた」状況が、時代の要請と戦争を経て、旧来の性別役割分業観に立つ良妻賢母思想に戻ってしまったことを批判的に捉えています。
金子珠理氏や堀内みどり氏の憂慮はよく理解できます。
しかし、ここで立ち止まって考えるべきことがあるのですよ。
果たして現代の女性信仰者が「布教上の脇役ではなくて男性に負けずに布教一筋に努力していた」という、婦人会創設時の女性の在りように戻りたいと考えているのでしょうか。
たとえば結婚し子供を持つ女性。ことに単立教会または末端教会長夫人においては妻や母としての雑事に加え、参拝者へのお茶出しなど教会長夫人としての雑事や、信者からの相談への対応といった雑多で煩雑な労働を日常的に担っています。
また常に模範的信仰者としての言動を期待され、いわば「いっぱいいっぱい」の疲労困憊した状況の中で「布教上の脇役ではなくて男性に負けずに布教一筋に努力する」ことを望む教会長夫人がどれだけいるのでしょう。
家事・育児・信者さんのお世話を住み込みの女子青年などに託すことのできる環境と地位がなければ、その活動のための時間と体力には限界があり、布教一筋に努力するなど空論ではないでしょうか。ましてや未信仰の家庭から教会に嫁いだ女性ともなれば、その苦労と苦悩、葛藤は並大抵ではありません。
勿論、そうした多忙を極める教会夫人としての生活の中でも、寸暇を惜しんで布教に歩く方はいます。しかしそれは女性の伝統的性別役割によって割り振られた雑務から解放されぬままに、努力と熱意によってその間隙を縫うように行われているに過ぎないのです。尊い行為ではありますが、そこには女松男松のジェンダー平等はありません。

 SNS上で得た、教会長夫人のリアルな声を記してみると、
【教会長の嫁に求められること】
・教会に嫁いだ女性は子を産むことが当たり前。
・子供を3人産んでも「少ないのね」と言われる。
・お花、着付け、お茶ができて当たり前。
・信者さんには常に明るく優しく接し、細やかな心配りが当たり前。

【日常生活】
・最初に起きて最後に寝る。
・お風呂は最後。
・休日は無い。
・他人とも同居。
・茶の間でゆっくり出来ない。
・プライバシーは無い。

【子育てについて】
・信者さんの目があるので、子を習い事に行かせ難い。
・同居なのにワンオペ育児率高め。
・子供より教会御用を優先させられる。子供は神様が育ててくれると姑に聞かされる。
・夫が子を連れ出すのはひのきしんかにおいがけ。
・PTAや町会で委員やりがち。地域への貢献というよりもアピール。

【信者さんに対して】
・自分の事はおろか、子供の服や持ち物の購入に神経を使う。
・旅行などのレクリェーションに時間も金も使えない。
・新婚旅行は行けても国内。
・使えない物でも、有り難くいただくのが基本なので教会が不要品だらけ。

など、一部を挙げただけでも、会長夫人はこれだけのストレスを抱えているのです。また、
・家政婦で働くと人の3倍の効率の良さで仕事する自信ある。
・お昼ご飯の段取りを考えながら十二下り踊れる。
・おしぼり作り大会(スピード)で優勝する自信ある。
・3時間は余裕で正座できる。
・餅を丸めるのかなり上手い。
・白ブラウス、黒スカート、白靴下は常備。
・靴べらを差し出すタイミングは絶妙!

という、教会長夫人に求められる姿を逆説的に述べている意見もありました。これらは「男尊女卑の正体」の一部を表わしているのではないでしょうか。

さて、現実を語りましょう。
天理教の女性観の中でも、特に現代の教会長夫人に求められるそれは、「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては(老いては)子に従う」という「三従」に似て、極めて封建的かつ差別的なものです。
それは天理教の教会が実質的に世襲制、それも男子が継ぐことを尊ぶからだと思われます。必然的に夫人には夫である会長を立て、裏方としての一切を切り盛りすることが要求されます。後継者となる子供を産むことを半ば義務づけられ、ルーティンワークとして前述した現役教会長夫人達のリアルが示す仕事を担わなければならない。つまり「めまつをまつわ ゆハんでな」の教えを有名無実なものにしてしまい、女性だけに過剰な負荷がかかる原因の一つが、この世襲制と言えるでしょう。
これを解消する手立てとして世襲制の廃止も考えられますが、たとえ世襲を廃止し、血縁外から教会長を受け入れたとしても、その夫人に日々求められることに、何ら変わるものは無いのです。
となると、男性(会長)が家事、育児の負担を共に負うなどの積極的なサポートを行うという、一見地味に思える方法が意外と効果的なのかも知れませんし、教会に住まう女性が日常のルーティンワークから完全に解放される休日を設けることなども考えるべきじゃないでしょうか。
これらベタな手法ではあっても、救いにはなるんじゃないかと思います。
むしろ、こうした日常的な生活に即した部分を改善することでしか、女性の負担は減らないのです。その分、当然男性会長の負担は増えますが、それを負担と思っているうちは改善などあり得ないでしょう。
いずれにしても女性の立場を改善するには男性の覚悟は不可欠であると思っています。

繰り返しますが、教会に嫁ぐ女性がいない、後継者がいないという原因の一つは、天理教が教会長夫人をはじめとする女性のあり方を固定化し、過度な要求を無意識のうちに突きつけてきた結果だと思うのです。
教会は子が継ぐもの、という慣例は崩壊しつつあります。女性は嫁ぐものという観念も同様です。
天理教の女性の役割も含めて、事の根本的解決に向けて議論を交わすべきです。
少なくとも「女松男松のへだてなし」と口にする時、我々は忍従を強いられる天理教女性の現実から目を背けてはならないと思っています。

よって件のごとし。

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