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N4書房日記 2021 1216-1221

1216

梱包・発送のための単純作業をしながら、河合奈保子を聴いていたらへとへとになった。声が明るくて元気すぎるので、精気を吸い取られたよう。

体当たりしてくるような声というか、耳が当たり負けするというか。

「けんかをやめて」は勝手な主張に腹が立つという意見をよく聴くが、モテモテ願望を満たしてくれる曲なのではと思い当たる。

「もてない……」と嘆くよりも「私のために喧嘩をするのはやめてー!!」と、ある種の傲慢さを演じてみたい願望を誰もが持っているのではないだろうか。

「やめて」と嘆願しながらも「あたしって、モテモテよね……」と内心では酔っている……、そんな人になってみたい……。女というより誰もが身勝手なのか。

しかし河合奈保子が歌っている映像を見ると、ニコニコしながら歌っているので「それは違う!」と言いたくなる。嘆願しているようには見えず、内心ほくそ笑んでいるようにも見えない。どういうつもりでニコニコしているのだろうか。

 

 

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河合奈保子の「ラブレター」を聴いていると「ためらいらいらいラブレター」というフレーズの「い」が気になってくる。

「い」の美しさを含んでいる歌詞として岡村靖幸の「愛はおしゃれじゃない」を挙げたい。部分的に「君にだけに」など。

そうすると少年隊の「君だけに」もそうなるのか。

サザンの「思い過ごしも恋のうち」も入れたい。「イ」の音がうまくアクセントになっている。

「おもイすごシもこイ それでもイイ イまのうチイイ」。

 

 

急に、プロデューサーの「デュ」ってところが不自然なんだよなと気づいた。

われわれは普段、ジャンケンをしたり、ジュースを飲んだり、ジョークを言ったりしている。「ジャッカルの日」「ヘイ・ジュード」「ジョジョの奇妙な冒険」などもよく知っている。

つまりこの世界は、というか和製英語混じりの日本語話者の世界には「ジャ」「ジュ」「ジョ」が自然に存在している。

では「デャ」「デュ」「デョ」はどうか?

「デャー!」なんて、昔の柔道漫画にしか出てこない掛け声である。つまり、使い道がないし、存在しないも同然だ。

「デュ」は、清涼飲料水の「マウンテンデュー」と、「鳥」「レベッカ」の原作小説を書いた「ダフネ・デュ・モーリア」、それに「プロデューサー」という表記の他にはちょっと思いつかない。

「デョ」なんて、発音すらできない。無理に言おうとすると「デヨ」か「ディヨ」になってしまう。

 

 

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「けんかをやめて」は、

 

・「ごめんなさいね」の後で「私のせいよ」と、分かり切っていることをわざわざ加える。そこが特にひどい。モテモテの自分が正直に罪を告白しているのだから、許してくれたっていいだろうという傲慢さ。

純粋な謝罪というより、一種の取引に持ち込もうという魂胆が透けて見える。

 

・「けんかをやめて!」と自分で仲裁に入ろうとするならまだ良いのだが、「二人を止めて!」と、またもや別の男(喧嘩をしているのではない三人目の中立的な男)を呼び寄せている。

修羅場なのに無意識にまた男を引っ張り込もうとしている。

三人目はいい迷惑である。それとも「待ってました!」とばかりに奈保子の言いなりになるのか。飛んで火に入る夏の何とかである。「けんかをやめてと三人目の男」といったタイトルで何か書きたくなる。しかもそれが河合奈保子になると、ニコニコしながら依頼するので、ますますチグハグで、悪辣さすら溶けて消えてしまったような感じになってくる。

 

・この曲は「い」の魅力を称える際にも使いたい。

「私のために争わなイイで」の「イ」が非常に高い音で、ポピュラー音楽の「イ」の歴史の中でも特筆すべき高さと、知名度と重要性を誇る使われ方である。と、いま自分内の賛成多数で認定した。なぜか「イ」が高くなると「ヒ」に近づく気がするのだが、気のせいだろうか。

 

母音の「あいうえお」のうち、どの音を中心に歌詞を設計しているかを考えると、割と当てはまりそうな例が幾つかある。

 

カーネーションの「60Wは僕の頭の上で光ってる」→これは「ウ」の代表例として良いのでは。

 

「い」は、「トップ・シークレット」と「けんかをやめて」のサビの高い「イ」。


おそらくこの手の例は松本隆の歌詞には多いだろうなと思っていたが、ふと、

あかいイー

いイイー

ピイイー

というサビを思い出した。

 

Lampの「空想夜間飛行」のイントロの「パラバラバラッパ」というスキャットは「あ段」が多い(というか全部)邦楽のイントロとしては「恋とマシンガン」の記録を塗り替えたのではないか。

たった一秒ほどで、誰にもそうとは気づかれずに、本人たちも意識せずに日本新記録を更新したのではないだろうか。

 

母音でなくて子音 K.S.の例として。

K:「恋の予感」・・・「恋の予感がただ駆け抜けるだけ」

S:「いっそセレナーデ」・・・「さみしいそしてかなしいいっそやさしいセレナーデ」

 

子音をアルファベットにしてみると、

kいのよkがただkkぬkるだk

sみsいssてかなsいいっsやssいsレナーデ

 

 

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母音の分布に偏りが見られる歌詞と、そうでもない歌詞があるのは確かなことのように思われる。

 

「イ」については、自分のイメージでは青白い感じ。下から上に刺す↑ような鋭さを持っている感じ。くさびを打つ↓と反対の向き。

 

「あらゆる歌詞に点在する母音」というテーマで考えてみたい。当たり前の話だが、どの歌詞にも母音が存在する。特定の母音がうんと強調されることもあるし、されずにバラバラのままであることもある。

 

ランボーは母音に色をつけている。

「A は黒、E は白、 I は赤、U は緑、O はブルー」

自分は、イの音には白さを感じる。

アやオは、色というより広さ。肯定的。

エは黄色。ウはどちらかといえば暗い、くぐもった感じ。

 

ツイッターで「藤子先生と自分は背の高さが同じ。小沢健二とも同じ」という発言を発見。ということは藤子先生=オザケンの背丈なのか。

 

Halhbyのアルバムに「アロハ」ばかりのドゥーピーズみたいな曲がある。

 

 

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レベッカ・ソルニットの「それを、真の名で呼ぶならば」は名づけることによって何とか危機を乗り越える契機にしようというエッセーらしい。これは「名前をつけて/残酷なくらいに」というフレーズの延長線上にあるような本なので、読んでみたい。レベッカ・ソルニットは「災害ユートピア」の頃から気になっていた人なので、じっくり読んでみたい。

 

読書会はまだ続いていますかと某さんからメールがあり驚いた。コロナ禍で普通はどこもやっていないはずだが、考えてみると再開してもおかしくない状況になりつつある。

課題図書に挙げてみたいのは「夏への扉」「鋼鉄都市」「おばちゃんたちのいるところ」「生命式」「詩歌の待ち伏せ」など。某さんはホームズや半七捕物帳が良いと言っていた。

 

 

1221

書くことがなくなるどころか、また増えてしまった。何か決定的なことを書くというよりは、「FG論」とか「カメラ・トーク論」の序章だけを書いているような。

1000ページくらいある本の、最初の15ページあたりをチョボチョボと。露払いというか、地ならしというか、前座というか。

残りの985ページは今後50年くらいかけて、優れた書き手が埋めてくれるはずなのさ。そう考えると気が楽になってきた。

 

傲慢な発言よりずっと多くの自虐的な発言があって、微妙なバランスを維持していたのがFGではなかったか。正確に言うなら、それはみっともないほどのレベルにすら見えていたのではないか。

 

 

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