1992年の拒絶と2014年の喪失と2020年の容赦。Rejection in 1992, loss in 2014, forgiveness in 2020.

これは、今から6年前の冬から現在まで、私の記憶だけを基にした話です。

今となっては事実とは異なるかもしれません。6年が経過しているため、私の記憶も曖昧であるからです。あなたもご存知のように、記憶というものは記録とは違います。記憶は、すぐにあやふやになり、ときに改編され、良くも悪くも、変化していくものです。無意識の自我というものが改編を促すのかもしれません。ですから、この物語は記憶を基にした、掌編の『小説』として読んでいただけたらと思います。

星野さんが亡くなったのを知ったのは2014年1月31日でした。星野さんのブログを見て知りました。穏やかな笑顔の遺影も載っていました。実際に亡くなったのは2014年の1月17日だそうです。その死亡記事は奥さんが書いていました。星野さん自身が書いた最後のブログは2014年1月11日。その後、私は毎日覗きましたが、更新されていません。やっと更新された1月31日のブログを見たときは、何かの間違いじゃないか?と思ったほどでした。ブログ上の生前葬とか、そういう趣向なのかと。星野さんの過去のブログに、そういうような記事があったからかもしれません。

星野さんは、私が駆け出しのコピーライターだったころの上司で、私よりも13歳年上でした。入社面接をしてくれたのも星野さんでした。当時の私は三流私大国文学科の4回生でしたから、ポートフォリオ(作品例・印刷物・仕事で書いた広告コピー事例)などというものは一切なく、2Bの鉛筆でゴリゴリ書いた紀伊國屋の四百字詰め原稿用紙百枚の束(コピーライター養成講座時代の作品とか、個人的に書き溜めた広告コピーとか)を星野さんに見てもらっただけでした。採用が決まったのは、きっと星野さんの一存だったのでしょう。学生のまま、会社案内とかカタログとか5段の新聞広告とか、そういうコピーを書かせてもらいました。ほとんど手直しもなく世の中に私のコピーが出ていきました。それもこれも、すべて星野さんのお陰でした。社会人としての、大人としての、イロハを教えてもらいました。仕事帰りに、レコード屋、古本屋、バー、ビリヤードなど、いろいろと連れて行ってもらいました。私は大学卒業後もそのままその会社でコピーライターを続けていました。そういうことができるような、ある意味で元気な時代でした。しかし3年に満たないうちに自己都合(社長と喧嘩)で、私は退社します。ありがたいことに、退社後も、星野さんとは付き合いが続きます。

それが1992年のある日、星野さんから拒絶されるようになりました。私の気のせいだと思いたかったのですが、明らかに無視されることが増えて、私の方から少しずつ離れていきました。30歳になった私にも、そのくらいの分別(つまらないプライド?)はありました。その後、亡くなる前の年に、共通の知り合いから、星野さんが個展(写真のグループ展だったかもしれません)をするらしいから見に行く?と誘われたことがありました。なのに私は30年前のしこり(わだかまり)があったため、その誘いを無視しました。もし行っていたら、会っていたら、わだかまりも消え、誤解だよ、ということになったかもしれません。そもそも星野さんは「そんなことあったっけ?」と笑い飛ばしたかもしれません。

2010年秋、私は猫を飼いました。その後、当時勤めていた会社のパソコンで(仕事をさぼって)猫のブログを探し始めます。私の家にはパソコンはありませんでしたし、ブログもしていませんでしたが、他の人がどんな猫を飼っているのか、興味本位で知りたいと思ったからです。2013年、夏。私の鬱病が酷くなり、会社を辞めようかと悩んでいたころ。何の気なしに、ひょっとしたら星野さんはブログをしているのではないかと思い、探してみました。そして見つけました。星野さんのブログはに2008年12月スタートしています。全て読みました。飼っている猫のこと、読んだ本のこと、観た映画のこと、聴いた音楽のこと、社会批判から身辺雑記、実母の介護のこと、妻への感謝、などなど、私が知る前の、私が離れた後の、そして2013年時点の星野さんがいました。そのとき、すぐに連絡を取ればよかったのです。「仕事の依頼はこちらまで」というアドレスがあったのですから、メールは送れたはずです。でも会社のパソコンでしたから…。というのはただの言い訳です。そうです私は怖かったのです。1992年の拒絶が続いているのではないか? そう思うと連絡を取る勇気が出なかったのです。

それから半年間、更新されていく星野さんのブログを、ただ見るだけでした。私の退社が2014年2月末に決まります。会社を辞めたら星野さんに連絡をとろうと思いました。次の仕事を紹介してもらえるかもなどと甘いことも。馬鹿です。私は星野さんのブログを見続けていたので、もう星野さんを懐かしい人ではなく今を知っている人だと誤解して、そのうえ私のこともそう思ってくれるだろうと、さらに誤解していたわけです。もちろん1992年の拒絶についても、何らかの、私にとっての都合の良い答えが得られるのではないかと期待をしていました。つまり馬鹿なのです。

そして2014年1月31日。私は間に合いませんでした。遅すぎました。2週間も遅れたのです。星野さんの死を知った私は、ブログにメールを送りますが返信はありません(のちに奥さんに聞くと「パソコンの操作がよくわからなかったから」とのこと)。早速、共通の友人から住所を聞き出します。電話番号は知らないとのこと。明日行くことに決めます。奥さんが留守かもしれない。留守の時のことを考えて、その夜、長い長い手紙を書きました。自分のこと、私は怪しい者ではなく、星野さんとの関係のこと、大変お世話になった者で、この度はご愁傷さまで…。さっぱりまとまらない、分厚い手紙を手にして、翌朝、住所を求めて出かけました。午前中に家を見つけ、初対面の奥さんに事情を説明しました。奥さんは半信半疑です。午後からは、当時の会社の同僚や先輩たちも訃報を聞いて集まってきました(彼らは普段から奥さんと面識があります)。奥さんもやっと私を信用します。ちょっとした同窓会のようでした。私にとってはお馴染みの猫もいました。

その後、形見分けもしてもらい(カメラとスピーカー)、分骨までしてもらいました(星野さんの白砂のような骨粉が、遺影とともに私の部屋にあります)。葬儀の後、涙ながらに私は、思い切って1992年の拒絶について語りました(星野さんを悪者にしないように気をつけました)。奥さんや当時の同僚や先輩から、私に対して慰めの言葉はいただきましたが、明確な答えやヒントになるような断片は、手に入れることができませんでした。思い過ごし、気のせい、深い意味はない、などなど。あたりまえですが当事者以外にとっては他人事なのです。(そもそも、その場での相応しい話題ですらありませんから)そういう反応は無理もありません。当事者にとっても、今となって記憶は風化していきます。しかし当事者だからこそ、1992年に感じた拒絶と2014年に感じた喪失は私にとっては等価として刻まれています。星野さんの遺影は穏やかに笑うだけですが。

毎月17日には、私は欠かさず奥さんにメールを送っています。大したメールではありません。「無職になりました。猫の咳が気になります」といった、近況報告や猫についてです。そのお陰で、ときどき食事をするような、友達付き合いをさせていただいています(その席に星野さんはいません)。あれから6年過ぎました。星野さんのいない世界で、星野さんの奥さんと私の奥さんが食事をするのを見ていると、とても不思議な気がします。これこそが1992年の拒絶の答えであり、星野さんの容赦なのかもしれません。そう思える今日この頃です。

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