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【「ともに考え、わかりあう」道筋】生き方を考える

何も自分は悪くないのに、なんで自分はこんなふうに生まれついたのか、と考えたりしたことが、少なからずありませんでしたか?

そう感じる生の不条理のようなものに対して、宗教は答えを与えてくれます。

「それは神様があなたに与えたレッスンです。苦しみの中でも心清く生きたならば、必ず死んだ後で天国に行って、永遠の幸福に預かることができるのです」と、こんなふうに言われたら、思わずひっかかってしまいそうですが^^;

人は、ただ苦しむ存在ではなくて、なぜ苦しんでしまうのだろう?というように、苦しみに対して振り返り、それに態度を取ろうとする存在です。

そういう存在であるからこそ、その苦しみに対して何らかの答えを与え、方向付けるものが必要になり、それを宗教というものが担ってきたということだと思います。

実は、宗教というものは、皆が信じていればハッピーなのですが、近代以降の時代は、宗教がその力を、誰もがそれを信じ導かれて生きていけばいいという絶対の指南力を失っていく時代でもあります。

【参考記事】

【参考図書①】
「救済のプラグマティズム ジェイムズの「宗教と科学」論」林研(著)

「プラグマティズム古典集成―パース、ジェイムズ、デューイ」チャールズ・サンダース・パース/ウィリアム・ジェイムズ/ジョン・デューイ(著)植木豊(訳)

そうなると人は、世界像を自分で形作らなくてはいけなくなってきます。

古代ギリシャの時代と近代以降の時代は、その点で似ていると思います。

安定した世界像の中で生きていられなくなる。

一人一人が自由な生き方ができるようになるとともに、一人一人が自分の生き方を作らなくてはならなくなる。

自由ということは、大変すばらしいものであると同時に、生き方を作らねばならないという重荷でもあります^^;

そういう時に、宗教のような形でなくて、一人一人が考えていくアプローチが重要です。

疑問を持ち、問いを発し、ほかの人たちと考えを交換しあう中で、それぞれが自分の生きていく方向を形作っていく。

そういうことが必要になっているのが現代だと推定できそうです。

【参考図書②】
「意識はなぜ生まれたか―その起源から人工意識まで」マイケル・グラツィアーノ(著)鈴木光太郎(訳)

「脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論」ジェフ・ホーキンス(著)大田直子(訳)

「脳の地図を書き換える 神経科学の冒険」デイヴィッド・イーグルマン(著)梶山あゆみ(訳)

それができないと、現代人はとても苦しくなってしまうのではないでしょうか。

近代も初頭のうちだと、それなりに生き方の形がはっきりしているところがありました。

日本社会で言いうと八十年代初頭くらいまでは、「追いつけ、追い越せ」という世界像がありました。

日本は、遅れているのだから、まだまだがんばらなくてはいけなくて、欧米に追いつけ、追い越さなければいけない。

貧しいのだから豊かにならなければいけない。

後発近代というのか、国全体としてそういう目標がありました。

個々人にも同じような目標がありましたね。

貧しい家に生まれた人が都会に出ていって豊かになる。

しかも、その手段の第一のものは勉学でした。

学校に行って勉強を身に付けて、社会的に活躍できるポジションを得て豊かになる。

そういう生き方の目標があった時代でした。

そうした目標、生き方のモデルは、八○年代初頭に、既に壊れていたのではないかと推測されます。

簡単に、その理由を一言でいえば、目標としていた豊かさが達成されてしまったということになります。

追いつかなくてもよくなってしまった。

貧困を脱出するためには、学問を身に付けて、学問を身に付ければ、ひとかどの者になれて、ちゃんと活躍できる。

だからちゃんと勉強しなければいけない、というような考え方も壊れてしまった。

何のために勉強しているかも分からなくなってくるし、生き方の形をどうやって作っていったらいいかも分からなくなる。

そこからが混沌とした世界像の危機の時代になってくる。

そして現代、どうやって生きていったらよいのか分からない時代になってきたと思います。

でも、そういう時代だからこそ、自分の世界像の形を確かめたり、問い直したり、互いの価値観を含めた世界像を交換し合ったりして、一人一人が世界像をつくりあげていくことが必要になります。

そして、そういう営みが、どこかでフォローされないといけないとも考えています。

本当の意味で、人間と社会のあり方をさまざまに考え、それを通じて自分という存在について考える。

そして、自分の生き方の方向、価値観というものを一人きりではなく、一緒になって考えていくということが、できなければいけないだろうと思っています。

努力しないで、はじめから勝っている人が総取りするという「文化資本主義社会」の原理が定着している現代において、実用文のスキルの教育やビジネス思考法だけではだめだと思います。

私は、そういう、生き方を考えることに対して、今、本当に必要なのは、国語や哲学の充実、そして、健全な形で文化資本の偏在による社会の階層化が無くなる方向に社会を変革して行く必要があると考えています。

【参考記事】
「文化資本の偏在による社会の階層化」

グローバル化、情報化が進むデジタル世界が席巻する現代において、今、敢えて国語や哲学の大切さを、今一度、問いかけたいですね(^^)

【関連記事】
【「ともに考え、わかりあう」道筋】哲学とは「知を愛し求める」こと
https://note.com/bax36410/n/nd7457bd10e34

【参考図書③】
「国語は好きですか」外山滋比古(著)唐仁原教久(イラスト)

「武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50」山口周(著)

「進化思考―生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」」太刀川英輔(著)

「資本主義の次に来る世界」ジェイソン・ヒッケル(著)野中香方(訳)

「科学と資本主義の未来 <せめぎ合いの時代>を超えて」広井良典(著)

「文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方―」吉野耕作(著)

「街場の現代思想」(文春文庫)内田樹(著)

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