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【「ともに考え、わかりあう」道筋】哲学とは「知を愛し求める」こと

哲学とは、「知を愛し求める」という単語です。

【参考記事①】

そして、哲学というのは、議論のゲームだとも言えることから、そこに「あらかじめ存在する絶対の真理」などというものは無いという前提条件から議論がスタートします。

つまり、お互いに議論しあって、どの考えがより深くて説得力があるかを考え合う。

そこで、より説得力のある考え方を、さしあたって「真理」と呼ぶ、ということです。

ですから、もともとどこか客観的な真理があって、それを正確に言葉でもって写し取る、というふうに考える必要はありません。

議論しながら説得力のある考えを考え合っていくゲームなのですから、あらゆる学問は、本来、哲学なんです。

【参考図書①】
「翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない」(ちくま学芸文庫)永井均(著)

「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫)永井均(著)

「スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険」谷川嘉浩(著)

「言語はなぜ哲学の問題になるのか」イアン・ハッキング(著)伊藤邦武(訳)

「科学哲学―なぜ科学が哲学の問題になるのか」(現代哲学への招待 Basics)アレックス ローゼンバーグ(著)東克明/森元良太/渡部鉄兵(訳)

「宇宙はなぜ哲学の問題になるのか」(ちくまプリマー新書)伊藤邦武(著)

「幸福はなぜ哲学の問題になるのか」(homo viator)青山拓央(著)

「新しい哲学の教科書 現代実在論入門」(講談社選書メチエ)岩内章太郎(著)

「数学は最善世界の夢を見るか?―最小作用の原理から最適化理論へ」イーヴァル・エクランド(著)南條郁子(訳)

「現代思想2020年6月号 特集=汎心論―21世紀の心の哲学」デイヴィッド・J.チャーマーズ/永井均/飯盛元章/髙村夏輝/鈴木貴之/平井靖史(著)

「kotoba(コトバ) 2016年 秋号」

アルケー(※1)は、多様に変化する自然の現象の根底となり、現象が生まれて、そして消滅していく根源です。

※1:
philosophia(哲学)というのは、ご存じのように「知を愛し、求める」という単語です。
人間は、全てを既に知っている神と同じようなものではない。
しかし、ずっと議論したり、研究を続けたりしていく中で、少しずつ本当の真理に近づいていく存在である。
これが、「哲学」という単語のもとの意味です。
では何を知っていくのかというときに、一つ提示されたのが「アルケー」という概念です。
アルケーは「始まり、始源」という意味で、のちに「原理」と訳すこともあります。
一番大元のものを知ることが大事であるし、大元のものを知ることでこの世界を理解したい。
そうしないと、表面的なものをいくら集めても(それは膨大なデータを集めればいいわけですが)、真相は見えてこない。
つまり、真理を知るということはアルケーをつかむことである。
これが、ギリシア哲学がその当初から追求したプログラムの一つです。

一般にアルケーが変化することによって世界は変化していきます。

経験的な事実(自然、世界、宇宙)をもとにロゴス(言語)の論理的な必然性によって推測されました。

そう哲学は、アルケーです。

つまり、物事の原理をこそ問い求めるものであるということ、これを記憶にとどめていただきたいと思います。

その点を理解した上で、では、人間の妬みを考えた場合、それを理解するのは、とても難しいことだと解るはずです。

どうして足をひっぱり、後ろから石を投げたりするのか?を理解出来ない時もあると思います。

その多くは、利害の対立に起因しています。

しかし、理解されない、理解出来ないことを悩むことはないと思います。

むしろ、理解される、理解出来ると考えるとしたら、それは傲慢というものです。

傲慢は、古代ギリシャ以来、ヒュブリス(※2)といって、最高の罪悪であるとされてきました。

※2:
神話に由来した言葉であり、神に対する侮辱や無礼な行為などへと導く極度の自尊心や自信を意味する。
通常は後で厳しく罰せられる。
この神話上の言葉は、非常に受け容れ難く傲慢で侮辱的な行動が、古代神話(例:エディプス)において説明されているような行動の一つを想起させるようなやり方で、道徳的規範と向き合うことを示すためにしばしば用いられる。

とりわけて、政治上のリーダーにとって傲慢は、許すことのできない罪悪と言えます。

この世界を自分が所有し、一体となることを要求するからです。

そこには、違いを認める思想がない。

多様な価値観を許容する心がない。

そのことを踏まえた上で、現代の世界を眺めてみると、そんなリーダーが多い現代で、多様性を声高に叫ぶのだから、一体全体、何がしたいのか理解に苦しみます。

その時、必要なのは、リーダーたちの意味のない言葉ではなく、世界を所有することはできないという事実に自分で気付き、理解することです。

【参考記事②】

そして、ただただ分かち合うことしかできないという思想を学び、哲学しながら行動に移すこと。

私たちの未来は、人間や国や文化の違いを受けとめ、この芳醇な世界がもたらす豊穣な大地の上で暮らす人々との多様性を、どう生きて行くかにかかっています。

最初から理解する、理解されるということは、相互の関係がぴったりと一体になっていることを意味しています。

事実、そんなことはありえません。

だが、つい私たちは期待してしまう。

そこに弱さがあり、罠があるのだということにも気づいて欲しいと思います。

そのことを、常に、意識(※3)しておくべきだと、そう感じます。

「残酷人生論」池田晶子(著)

※3:
「わかる力は愛である」
・「わかろう」という意志、これは何か。
言うまでもない、優しさである。
わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。
愛のない人にはわからない、愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはあり得ない。
なぜなら、最初から、わかる気がないからである。
わかる気のない人になぜわかるわけがあるか。
愛していないものを、なぜわかる気になれるか。
・わかる力は、愛である。
えてして人は気づいていない、真の知力とは、愛する力であることを。

例えば、お医者さんは、病気という結果だけを見て、ちょっと診ただけで、病気なんてわかるわけないのだから、一旦、これまでの経験と知識を知恵に変えて判断しなければならない。

その診断の確度を高めるために、何を食べ、何を習慣にし、どうやって今日まで生き、その結果、何故、病を患ったのか?をトレースすることで、総合的な診断へと繋げて行く。

最初から何が良くて、何が悪いか、分かる人なんていないのだから、その人の生きた過程を覗かなければ診断なんてつけられません。

【参考記事③】

この事は、色んな関係性において大切な視点であり、情報化社会の現代では、個人レベルで異なる日々の関心事であった話題もあっという間に世間に広がります。

しかし、それらの情報は、個別な特異性があり、人によって必要なものが異なります。

情報過多の中で、情報リテラシーの正確さは、誤った選択を防ぐ力になります。

また、得られた情報に対して深く考えていたとしても、それを言明しなければ、その考えを活かしたことにはなりません。

【参考資料】

人は、話をしながら、たくさん気付くことがことがあります。

考えを他者と共有し、新たな知識を生み出していくことこそが、考えあうことです。

それは、私たちの暮らす社会全般に言えることだと思います。

いつも、私たちには、同じ間違いをおかさないように、「わかりあえない」を越えるための総合的な知見と判断が求められていることを忘れないでいたいですね(^^)

【関連記事】
【「ともに考え、わかりあう」道筋】生き方を考える
https://note.com/bax36410/n/nfab0e8b10bb3

【参考図書②】
「「わかりあえない」を越える―目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC」マーシャル・B・ローゼンバーグ(著)今井麻希子/鈴木重子/安納献(訳)

「なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術」トッド・ローズ(著)門脇弘典(訳)

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