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朝のラジオで朝まなび!

「おもしろくなき世をおもしろく」は、幕末の志士、高杉晋作の辞世の句です。

「住みなすものは心なりけり」は、高杉晋作の意志を受けた高杉晋作の愛人おうのが加えたものです。

「おもしろくなき世をおもしろく」とはまた、どういうことか?

あれだけ破天荒な生き方をした高杉晋作が最後にもらした言葉ではありますが、あれでもまだ物足りなかったということなのでしょうか?

この句の基底にあるのは、人生とはそもそもおもしろくないものだ、でも生きようによってはおもしろくもなるよ、というものです。

単純にあ~おもしろかった、ではないところに高杉晋作の実存が持っていた視線の地平が見え隠れしています。

そして愛人おうのがその後に付け加えた「住みなすものは心なりけり」の意味するところは何か?

歴史を転換させるほどの大事を成し遂げた男が、そういう世の中に生きてみて、結局、生の実体はこのふわふわした捉えどころのない心だった、ということなのでしょうねぇ。

では、歴史の中で砂粒や塵にも等しい私たちはいったい、どうすればいいのか?

自分の歴史の中で果たした役割を尻目に、高杉晋作は後世を生きる我々にその答えをしっかりと残してくれたのです。

おもしろいもおもしろくないも、結局、決定するのは心です。

高杉晋作は、こういいたいのだと思います。

あれだけの人生を送った高杉晋作が言うのだから真実味があるのはもっともなことで、人生はたいしておもしろくないものだ、でもおもしろくないつまらないと言いながら死んでいくのももったいないじゃないかってこと。

おもしろくない、人生だけれど、おもしろくすることもできる。

なんたって、この世に生きているのは自分の心なんだから、要は、心次第で、おもしろくもつまらなくもなるんですよってことなんだと思います。

私も含めて、つまらないコンプレックスや何かのトラウマにとらわれて、世の中を人生を半分呪いながら生きている人は数多くいるのではないかと思います。

そして、そういう人は間違いなく自分の人生は不幸でつまらないものだと感じているのではないでしょうか?

そのため、高杉晋作の「おもしろくなき世をおもしろく」の言葉に救われるような気がします。

それに高杉晋作は別に楽観的になれと言っているのではありません。

田口ランディは語るは「騙る」という、うまいことを言っていましたが、そう語るは「騙る」少しばかりのウソが混じっていてもいいと思うんですよね。

また、語るはカタルシスにも通じ、言葉にすることで心に澱のように溜まったものを一気に放出して浄化する!機能も併せ持っていると思います。

高杉晋作の言う心次第は、言葉に置き換えてメタ認知すること、そう言葉次第とも言えます。

自分の人生を呪われた言葉で綴ることもできるし、幸福に満ちた言葉で埋めることもできます。

不幸だと思っていた出来事以外に、忘れ去っていた幸福なできごとだってあるはず。

私たちの記憶は曖昧で、自分は親によってスポイルされてきたと規定するAC的な人間はそれ以外の記憶を一切排除するそうです。

でも、本当はそうではないはず。

人間は意味を求めるもの。

だから自分の人生にも意味を欲しがります。

でも本当は意味なんてどこにもないんですよねぇ^^;

意味によって形作られた自分の物語は、まさに今の自分に都合のいい記憶しか浮かび上がらせないから・・・。

だから語られた物語に意味はありません。

昨日の物語は今日にはもう書き換えられています。

そうやって自分を語り尽くしていくと、あ~もう意味なんてどうでもいいや、となるはずです。

さあ、つまらないと嘆いている場合ではない、能力のない薄幸な自分を抱えてウジウジしているしている暇もない。

現実は我々によって語られるのを待っている。

我々は語らねばならない。

つまらない世の中を言葉で色づけしなければなりませんから(^^)

語る方法もいろいろあるよね!

それこそ飲み屋に行って語るのもよし、詩にこめて唄うもよし、小説やエッセイで語るもよし、そしてブログで語るもよし、とにかく語らねば(^^)

自分の生きた生を愛情こめて語ることです。

ちなみに社会学的にはこうした行為を表出(欲求充足)と呼び表現とは区別するそうです。

さあ、自分の人生も自分の心次第、心によって浮いたり沈んだりするこの浮き世を変えてみませんか?

浮き世を生きるあなたにとって人生はどういうものですか?

そうそう、新渡戸稲造は、「「知識という石ころを溶かしているのだ」 真の学問は筆記できるものではない。筆記できる部分は滓である。真の学問は行と行とのあいだにある。」と述べていました。

滓というのはまた過激な表現ですが、結局のところ、ブログは自分が書いた内容がいろいろな人に影響を与える、という「その後」よりも、それを書いている「プロセス」に意味があるような気がしてきます。

書いた結果残るのは抜け殻のようなもので、すでに自分にとっては役割を終えている、という感じみたいな(^^)

例えば、ブログを書くといった行為、つまり、筆者などをしていては、とほうもない時間がかかり、生涯多くの書物は読めなくなってしまいます。

だけど、せっせと読んで記憶したところでいったい何になるのか?

つまり、知識の足し算をやっているだけのことではないのか?

大袈裟に言うと、知識がいくらあっても時勢を救済し、歴史をたちなおらせることはできません。

そう、知識を精神のなかにとかしきって行動のエネルギーに転化するということが大切なんですよね(^^)

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