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【簡易レポート】成熟するためには遠回りをしなければならない

既に、多くの先人が指摘しているが、世界の人々が共存するためには、西洋的な二者択一・二項対立のコードから脱皮すべきである。

未だに、世界各地で紛争状態が続いているが、その背景のひとつには、1神教的価値観に基づいた絶対善同士の衝突がある。

一神教は普通、一元論だとされやすいが、実際には、「己が正しい。相手が間違っている」と決めつけるため、即、2元論となる。

そこに二者択一・二項対立の世界が生まれ、自らを絶対善とする価値観に基づいて相手を否定し排除する論理がまかり通ることとなる。

この二者択一・二項対立の西洋近代文明を象徴するものとして、裏表で勝負を決するコイン投げと例えられることが多い。

二者択一・二項対立の世界を防ぐ手段のひとつである国連等の条約機構の存在は、「船頭多くして船山に登る」的な対応しか出来ていない状況である。

いくらみんなが集まっても、愚案ばかりではどうしようもないということであるなら、「三人寄れば文殊の知恵」的な対応が有効であり、 一人や二人ではなかなかうまくいかない場合でも、三人目の知恵や視点が加わることによって互いに刺激し合い、当初は思いもよらなかった発想が浮かんで、問題の解決につながることがままある。

この視点で思い出されるのが、未開社会にも独自に発展した秩序や構造が見いだせることを主張し、西洋中心主義の抜本的な見直しを図ったことが最大の功績とされるレヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の考想を簡単にご紹介させて頂くのは、成熟した人間であるために必要な資質は何かを問うためである。

レヴィ=ストロースは、人間の育成にとって大切な視点として、先行世代に対立する態度を取ることができる成熟した同性の成人が最低二人は必要だと述べている。

この指摘の意図するところは、人間の成熟のロールモデル( ロールモデルを設定することで、目指すべき道や、やるべきことが明確になり、成長の加速を期待できる。)というのは、単独者によっては、葛藤の中に潜むエゴと向き合う場を作り辛いことから、伸び悩む可能性が高くなるため、積極的に、人間的成熟、葛藤を乗り越え「脱皮」する場の形成が必要だと指摘している。

要は、タイプの違う(違うことを言う成熟した大人)二人のロールモデルがいないと人間は成熟できないのだと言っている。

この違うことを言う成熟した大人から発せられた二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件となる。

では、人を成熟させないための最も効果的な方法は何か?

その問いの答えは、単一の無矛盾的な行動規範を与え続けることである。

ここに二者択一・二項対立の世界が生まれ得る土壌が存在している。

さて、成熟というのは、簡単に言えば、自分が、否応無しに与えられた(投げかけられた)問題(家族・学校・社会・世界)の解き方に対して、以下に示す課題を克服しつつ、

①即時対応言語最適能力

②思考の瞬発力・集中力・持続力

③考え続ける忍耐力

④脱「どちらか一方思考」

⑤言葉と言葉の流れを繋げる立論(論点(何が言いたいのか?)・論拠(なんで?)・論脈(ロジックの流れ))の習慣化

⑥高い視座と広い視野

⑦人間に対する深い洞察力

⑧弛まぬ知的好奇心

所属する場(家族・学校・社会・世界)で出される多義・多様の習っていない問題を解く能力を身に付けることである。

また、成熟の条件というのは、どう振る舞えばいいかわからない時に、(僅かな情報から多くの事象を読み取ることで)どう振る舞うかを知っているということである。

特に、論理的思考力は、最も重要であるにも関わらず、鍛えるのが難しい素養である。

そこで、前述の「どう振る舞えばいいかわからない時に、(僅かな情報から多くの事象を読み取ることで)どう振る舞うかを知っているということである。」を理解するために、正確に把握するのが難しい数値を、論理的に概算するフェルミ推定が役立つ。

最低限の前提知識と論理的な思考力、計算力が求められるフェルミ推定(フェルミ推定とは、与えられた問題の数値を知識・経験則を用いて客観的・論理的に推定するもの。)により、前提知識の有無は人によって異なるが、持ちうる情報を駆使して、以下のステップにより、いかに自分なりの解決方法を見出せるスキルが伴っいるか?が、とても重要となる。

Step1. 前提確認(計量対象の明確化)

Step2. 観察と戦略策定(計量タイプを診断する)

Step3. 論点の構造化(構造分解・数理モデルの生成)

Step4. 数値代入と計算実行(経験・知識に基づく数値の代入)

以上の点において、自身へ問うた時、どの程度の明確な答えを返すことができるのかどうかで、自身の成熟度が認識できるのではないかと思う。

多義・多様な世界で物事や人を理解するのが、とても難しく感じられるのは、人それぞれで、この成熟度が異なる事に起因しており、対話したときに、どの思考パターンで会話しているかに依って、互いの理解度の偏差が変わってくる。

前述のレヴィ=ストロースの「親族の基本構造」と、このフェルミ推定の考え方を応用して、簡単ではあるが二者択一・二項対立の世界を防ぐ手段として、ナショナル(家族・学校・社会)⇒ローカル⇒グローバルの3つのそれぞれの空間を生き抜くに、絶対の勝者も絶対の敗者もない三つ巴の思考が、共存可能な循環型社会を拓く鍵を握っている可能性が有るのではないかと考えられる。

三つ巴の思考で思いついたのだが、光の3元色は、普通、赤・緑・青紫をさすが、必ずしもこの3色に固定されているわけではない。

他の色でも、互いに独立した関係にあれば、その組み合わせ方によってあらゆるバリエーションを創り出すことが可能となる。

ナショナル(家族・学校・社会)・ローカル・グローバルの世界で生きる人々が、今からでも可能な限り成熟しながら、お互いに3原色の1つであることを認識して、その組み合わせ方を自由に楽しむことができたら、少しづつではあるが世界は変わってくるのだと推測する。

【参考記事】
コロナ後の世界をつくるもの――「成長」ではなく「成熟」
https://blog.tinect.jp/?p=75264

【補足事項】
西洋と東洋を対比させるのは古い気がするが、温故知新的な学び直しも兼ねて、思考の違いはいかにして生まれるかについて、参考までに、一例を簡潔に記載しておく。

どちらかと言えば外側に関心の中心が置かれ、誰でも理解できることや普遍性を重視する西洋の思考は、リチャード・E・ニスベットに拠れば、世界が名詞の集まり(木を見る)だということを教える。

また、同氏に拠れば自分の心の中に関心が向けられた精神性に富む東洋の思考は、世界が関係に満ちており、動詞は関係を表現するものだから、世界が動詞の集まり(森を見る)だということを教える。

この例の様に、社会環境が異なるので、教育も価値観もまるで異なる内容になってしまうことから、人、社会、国家、世界の見え方が根本的に違ってしまうことを理解しておく必要がある。

次に、世界を制御できると思っている西洋は、対象物を環境から切り離して考えるので、世界は、自分が努力すれば制御できると考えている。

関係性を大切にする東洋は、世界が複雑に絡み合っているので、自分の力ではどうにもならないことがあることを知っている。

つまり、原因推測(※)の思考の違いにも繋がっている事に注意しておく必要がある。

※印:
人は何かの原因を探る生き物であることから、原因を求める心を理解する上で、仮説思考・アブダクション・因果推論に潜む認知バイアスを知ることは、適切な判断をする上で有効である。
また、原因追求を行う私たちの心には、さまざまなバイアス、すなわち事前確率の無視、対応バイアス、心理学的本質主義が絡むことがほとんどである。
こうしたバイアスを克服することは容易ではない。
ただ重大な意思決定の時に、一つの原因、仮説にしがみつくのではなく、それを客観的に検証すること、他の原因の可能性を考えてみることは欠かせない。
なお、例として仮説思考を高める方法は、以下の通りであり、
方法①:「引き出し」を増やす
方法②:「問い」を身に着ける
方法③:「使える仮説」を立てる
日常で仮説思考を鍛えるコツとしては、以下が上げられる。
①論理的思考力を鍛える
②因果関係を正しく捉える
③未来志向になる

更に、西洋は、分析的思考(目立つ幾つかの対象物の属性に注意を向け、抽象化、単純化したうえで、因果関係を言い当てる。)が主流である。

東洋は、対象を取り巻く場全体に注意を払い、対象と場の要素との関係を重視する包括的思考が主流である。

この違いは、東西の医学の考え方の違いと同じである。

もちろん、現実の世界では、ふたつの世界は融合しており、西洋的思考を得意とする人もいれば、東洋的な思考を得意とする人もいる。

また、同じ、西洋的思考、または、東洋的思考でも程度の差がある。

そして、純粋な分析的思考を行えて、包括的思考を行える人は、殆どいないのではないかと推測される。

それでも、社会科学の研究では、背後にふたつの考え方の違いが存在していることを示しているのも事実である。

従って、人、社会、国家、世界間で、質の高いコミュニケーションが重要な相互理解⇒共通のビジョンが重要な相互支援⇒スィートスポット(「求められるもの」「情熱を持てること」「強みであること」)を意識した相互成長の相乗効果によって、各々の場において好循環モデル(関係の質・思考の質・行動の質・結果の質)の流れに乗る事で、

物から人へ、

実体から関係へ、

択一から並存へ、

序列性から共時性へ、

と、極端から両端不落の中間のグレイ・ゾーンに視線を換えてみると、今の暗い世界の洞穴の迷路から、なにか、かすかな光が見えてくるのではないかと思う。

自然に、みなが西洋的または東洋的な思考に収束するわけではない。

人間だから話せば分かる、ではいけないのだとも思う。

それは、基本認識が違うのだから、客観的な真実もひとつではないことになることから、根源的な認知の違いを知った上で、どう調和を取るかが、どの場(人、社会、国家、世界)においても融合の鍵になる。

そして、このメタレベルでは、全体と関係性を大切にする包括的思考が活躍するような気がする。

白か黒かを明確に決めなければいけない文化は息苦しく、その世界は、相対立する二つのものを同時に含むことが苦手である。

また、鴻上尚史氏が指摘しているが、選択の基本を、偶然性に任せる文化とは、つまり、究極的な根拠を手放した文化であり、また、論理性より、偶然性を選んだ文化であるから、どこか空虚な世界なのかもしれない。

しかし、イギリスには、「The darkest before dawn(夜明け前が一番暗い)」という諺がある。

人、社会、国家、世界も、いつまでも底にいるわけじゃない。

必ず底をつき、跳ね上がるときがくる。

たったこれだけの視点の違いだけでも、人、社会、国家、世界の様相は変わってくるのだから、何か始めるのに遅すぎることはない。

ただ、悲しいことだが忘れてはいけないことは、個人のことなどおかまいなしに世界が動いていることだ。

自分の意思とは関係なく、周りの環境は常に変化し続ける。

最初から派手なことや大きなことができたとしても、それは偶然でしかない。

だから、小さな世界でも、そこで必要とされることに意味がある。

そこから始まっていく。

まず、自分から、小さなことや地味なことも大事にして、そこから信頼を築いていきたい。

そう、新しい世界が何時でも開かれる時を待ちわびているのだから。


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