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【雑考】意味世界の共有について

組織は、認識、意思決定、それに行為の三つの活動のサイクルを繰り返している。

共有された意味世界。

これは価値観と言い換えてもいいと思う。

人は、その人特有の意味で彩られた世界すなわち意味世界を構築する。

基本的には、人と人の間のコミュニケーションによって意味世界が共有されるのである。

したがって、そうした共有の意志のない単なる情報の伝達や言葉のやりとりはコミュニケーションではない。

逆に、言葉を用いずに以心伝心で心が通いあい意味世界を共有することがあるが、これもコミュニケーションである。

さて、組織の適応にとって、いま順応している環境が成長過程にあるのか衰退過程にあるのか、あるいは終局を迎えようとしているのかについての判断は重要である。

そして、やがては衰亡するだあろう現在の環境に代わって、次にどんな環境を築くのか、そのためには組織の現在の常識をどのようなものに更新すべきか、といった将来に向けた明確な展望も重要である。

要するに、組織が適応的で長期にわたって存続・成長してゆくには、組織の環境認識が適切でなければならない。

その大事な環境認識の任にあたるのが組織のトップである。

そこで、 コミュニケーションの重要性についてまとめておく。

「組織を変える〈常識〉 適応モデルで診断する」(中公新書)遠田雄志(著)

本書によると、

「組織とは、組織化の過程で、その実態は、コミュニケーションなのである。

組織とは、放っておくと多義性が再び頭をもたげ、ついには多義的な個々人の”群れ”になる存在である。

こうした”群れ”化にコミュニケーションをもって逆らい、組織を維持、発展させようとするのが組織化である。

これらすべて、われわれが多義性の世界に棲んでいるからである。

要するに、コミュニケーションは基本的に、教育に代表される公的コミュニケーションと会話に代表される私的コミュニケーションとから構成されている。

(中略)

したがって、コミュニケーションは、組織の生を捉えるキー概念である」

と組織維持と変革には、コミュニケーションの促進が非常に重要であると述べている。

コミュニケーションとは、お互いの理解の枠組みを確認調整するプロセスがコミュニケーションである。

コミュニケーションは、昨今、企業だけではなく、日常の人間関係でもその重要性はいわれている。

人間関係の前提は、「自己カウンセリングとアサーションのすすめ(平木典子著 金子書房)」によると、以下のような趣旨を指摘している。

「自己カウンセリングとアサーションのすすめ」平木典子(著)

1. 人間関係は、必ずコミュニケーションの伝え手と受け手で成り立っている。

2. しかし、相手は私が伝えていることを私の伝えたいようにそのまま受けとるかどうかは不明。

人間のコミュニケーションの世界では、自分が伝えたことが正確に伝わる保証はどこにもない。

その世界では、自分の伝え方に、相手の受け取り方によって、自分が言ったことは、相手に多様なイメージや状況を想起させ、さまざまな感情を起こし、その人のその時の状態も加わって把握されるわけで、自分の言いたかったことと一致することは少ない。

3. 伝え手と受け手は、それぞれ違った人生上の経験、体験、親からの育て方などを通して自身の中に「理解するための枠組み」を形成し、その枠組みで、外部から入ってくるさまざまな情報、人からの話、刺激などを咀嚼し、それに加えその時の相手との関係性や気分や健康状態などを元に、喜怒哀楽の感情をその反応として表出する。

これらからすると、人間関係は、人と人は、お互いにわかには理解しえない、誤解する可能性が高いという前提で人と関わっていくべきということを示唆していると思える。

理解しえない、誤解するというのは、お互いの理解するための枠組みが違うということである。

つまり、外部の要因が触発として、自身の心の中のある特定の感情を起こすという作用ではなく、自身の心の中にある理解するための枠組みが、その人の生来の感情を起こすということである。

だから、ひとそれぞれ違うということである。

ひとそれぞれ考え方、思い方、感じ方は100人いれば100通りあるということである。

しかし、理解するための枠組みが違うままでは、人間関係は、お互いに誤解のままで、お互いの衝突や意見の食い違いが耐えなくなり、お互いの信頼関係を損なうことになる。

そうすると、人間関係は破綻を来す。

現代社会の人間関係などからのストレスや悩みはある意味で、自身の中にある理解するための枠組みがそうさせていると心理学などは指摘している。

理解するための枠組みは、別の言葉で表現すれば、心理学的には、「ビリーフ(belief、信じていること)」と言われているが、2,000年前のローマの皇帝哲学者であるマルクス・アウレーリウスも、その「自省録(岩波文庫、神谷美恵子訳)」で、

「外部の事物事象があなたを怒らせているのではない。

外部の事物事象は勝手に動いているだけだ。

腹を立てるのは体によくない」

というようなことを言っている。

「マルクス・アウレーリウス 自省録」(岩波文庫)神谷美恵子(訳)

つまり、怒りは、自身で我慢するというものではなくコントロールをすることが出来るということだと思う。

人間関係は、あらゆる日常生活からビジネス、会社等、至る所での基本である。

ここがうまくいかないと全てうまくいかないのが普通である。

いかなる経済効率性や経済的利益追求も人間関係の前では無力である。

人間は、ひとりひとり社会の構成員として、その社会に融合しお互い協力し、ある目的に向かって進んでいくのであれば、それぞれ違う理解するための枠組みを乗り越えて、健全な人間関係を築いていく努力をしていかないといけないということになると思う。

そこで必要になってくるのは、コミュニケーションといえるのではないであろうか。

コミュニケーションは、つまり、その一人ひとり違う理解するための枠組みをお互い理解し、その枠組みの違いに気づき、その違いを尊重しながら、その違いとどう折り合っていくか、そのお互いの確認調整プロセスをコミュニケーションというのではないかと思う。

そして、お互い同士の理解が簡単には至らないという前提で考えると、コミュニケーションは、常に頻繁に行う必要があるということだと言える。

同じ職場であっても人間関係の問題は永遠の問題だと思うが、お互い違う理解の枠組みを確認調整しあうプロセスは、遠隔地の同僚と比べ、より頻繁に行えるというのはあると思う。

物理的に同じ環境にいれば、コミュニケーションの頻度は、よほどのことがない限りほぼ毎日といえる。

そうすると、お互いの理解の枠組みを確認調整する機会は多く、誤解やお互いへの不理解などを調整するための時間を得ることが可能である。

しかしながら、遠隔地の同僚との理解の枠組みの確認調整作業は、物理的に毎日出張することができないことを考えると、頻繁には行えない。

しかし、遠隔地であっても同じ仕事の目的に向かっていく同僚と理解の枠組みの確認調整作業を可能な限り行う必要はあると思う。

人間はおそらく、理解の枠組みの確認調整プロセスを行いたいという無意識の欲求を生来持っているのではないかと思う。

それは、日常の会話の中でのお互いの共通項を探したり、相手の性格などを理解したりすることによって折り合っていこうとする意識があるからである。

従って、もっと気持ち的には出張をして遠隔地の同僚などに会いたいが物理的に不可能だということになれば、遠隔会議システムを選択して遠隔地の人達とのコミュニケーションを図っていこうとなると思う。

大切なのは、コミュニケーションの促進である。

コミュニケーションの必要性は、社会でも一般的によく言われているが、それに対する理解やイメージは100人いれば100通りだと思う。

このように、人間関係は、自分が思ったことを相手も同じように思うことはないという前提を起点に考えを起こしていくと、お互いの理解の枠組みの確認調整プロセスとしてのコミュニケーションの必要性に対する理解は、より具体性を持ってくるのではないかと考えられる。

【参考記事】


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