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【メモ(memo)】自分を認めるためのプレ・ステップ

今ある自分を認めるために、自分の中にある世界を見つめる解像度を高めて行くことも、必要ではないでしょうか。

例えば、誰かにとっての何気ない日常を、自分にとっての特別なワンシーンにするべく、切り取って描写するためには、以下の点に注意してみて、

①絶対的な知識量(どれだけ好奇心を持って世界を見ているか)

②得られた情報に関連性を持たせて何処で使うかを判断

③この世界を見る視線(「珍しき」をどれだけ自身が日常に感じられるか)

まず、否定文を否定して、肯定文で自分を見る、表現する、クセが大事ではないかと感じます。

ところが、これでもなかなかできない人も多いもの。

ひとつに、習慣の問題があります。

つまり、ついネガティブなところを見てしまうクセ、否定文で物事をとらえる習慣がついているのです。

今までは、無意識にやってきたので、クセとも思わず、そういうものとして、見ているかもしれません。

でも、習慣とは、一日でつくわけではないので、今まで、繰り返してつけてきたもののはず。

さらに、うれしいことに、先天的に、ネガティブな習慣を持っている人はいませんから、どこかから後天的に身に着けたもの。

誰かに何か言われたとか、何かの経験とか。

確かに、そういうものはありますが、過去に縛られることもないし、過去=未来でなくてもいいのです。

それに、ネガティブな習慣だって、身についたのですから、新しい反対のクセも、同じように繰り返してやれば、ちゃんとつけられます。

今日から、まず、意識することが大切です。

ただ、時に、なにもかも嫌になり、すべてに目を背けたくなることもあるでしょう。

そんな時、泣けるだけ、悪態を吐くだけついて、そのあとは、日常にある、祝福をひとつでも思い出してみてください。

出来れば、「ああ、綺麗だなと」とか、声にのせてみて、過去へ明日へ、たった今、この瞬間へ呪言を贈る。

それから、自分の中の何かが許せない状態だと、肯定的に見ることも、認めることも、しんどくなります。

だから、何か許せないことがあるなら、自分を認める前のプレ・ステップとして、先に、こちらを消化しておくことを、お勧めします。

たとえば、自分の何かやったことで、自分に対して怒ったり、許せなかったりしていませんか?

もしそうなら、もうそろそろいいんだ、とその気持ちを解放してください。

その気持ちで、一番損をしているのは、あなた自身でもあります。

怒りや、許せない気持ちがなくなれば、ココロも軽くなって、自分を認めることも楽になります。

それから、自分を認めることを、もう少し広い意味でとらえてみましょう。

日本語の一言「認める」とは、英語にすると、いくつか類義語があり、英語のほうが、意味はわかりやすいかもしれません。

認めるに、一番近い英語だと、"acknowledge"か、"accept"になります。

このふたつの単語は、お互いに同意語として辞書などにも出てきます。

"acknowledge"には、気がつく、認める、感謝する、というような意味が。

そして、"accept"には、受け入れる、受容、という意味が含まれています。

自分を認めるとは、自分を許すことだったり、自分に感謝することだったり、自分がここにいることに気がついたり、自分を受け入れたり、と、そんなことも、あっていいですね。

最後に、世阿弥の残した言葉に、「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」とあります。

「能 650年続いた仕掛けとは」安田登(著)(新潮新書)

安田登さんは、本書の中で以下のように語っておられました。

「「珍しき」も私たちが日常で使う「珍しい」とは違います。

「珍しき」というのは「愛ず(めず)」、すなわち愛らしいことであり、そして「目連らし」、目が自然にそちらに連れられていくことです。

いわゆる珍しいものや珍しいことは、二回目には当たり前になり、珍しくなくなります。

そのような珍しさは「花」ではない。

世阿弥のいう「珍しき」とは、まったくふつうのことの中に「あはれ(ああ、という感嘆)」を感じさせることです。」

私たちは、どれだけ心穏やかにいようと思っていても、生きていれば、嫌なことも、悲しいことも、へこむことも、腹の立つことも、恐れを抱くことも、あります。

それでも、朝はやってくるし、お腹は空くし、笑うことができたりします。

道端に咲く花は、私たちが気づかないだけで、昨日とは、開き具合を変えています。

また、傘を打つ雨の音は、ひと時として音を違えます。

そして、遠くに聞こえる鳥の声は、あっという間に空へ消えていきます。

どれだけ、内にたくさんのものを抱えていようとも。

何かに向き合うとき、心ひとつ、そこに向かう。

そこに身ひとつ。

心ひとつ。

で向き合った後。

再びの日常のなんと愛おしいことか。

一見、醜いとされる感情も、喜びに満ちた思いも、実は、全てが縦糸と横糸になって、織られたこの私の内なる世界は、なんと鮮やかで、なんと潔く、なんと尊いものであるか、感じられると思います。

そして、それでも、朝は、「必ず」は、やってこない。

絶対とか、決まってる等と軽々しく言えないし、また、あまり物事に決めつけをしたくないけれど、命は終わりがきます。

むしろ、それがあるからこそ、過去や今や未来があるのでしょう。

だからこそ、今ある自分を認めるには、そんな、ちょっとしたことを取り入れて、積み重ねてみてください、ね。

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