人生について

人生について、自分の考えを整理したくなってnoteを始めてみた。noteはいい。無料だし、自分の考えを匿名で人に発信することが出来る。匿名でないと、問題が出てくる。匿名でないと、批判にさらされるかもしれない。匿名だとしても、批判はされるだろう。しかし、それは大した問題ではない。なぜならば、批判してくる人との関係があいまいであるからだ。相手の育ってきた環境、口ぐせ、思考の方法、成し遂げてきたことなど、私には知ることが出来ない。その人の意見の出発点が不明なのである。出発点が不明であるから、その批判のベクトルがどれほどの大きさを有していても、自分に真っ直ぐに伸びてくる方向性を持っていたとしても、ダメージがないのだ。

人生についてまとめるのは、大学生にありがちなことだろう。大学生は、子供と大人の境目であることはおそらく間違いがない。なぜなら、社会に入る直前期であるからだ。高卒の人達はどうであろうか。力量というか、資質というかを軽んじるようであれば申し訳ないが、そこまで思い悩むことはないのではなかろうか。というのも、彼らはある程度決まった道を進むはずだからだ。

「人生は、選択肢の幅が広い時に、つらくなる」①

今思うと、自分は何をそんなに苦しんでいるのだろう。順接的に考えれば、選択肢の多いことは幸福であるはずだ。大学生という時期が子供と大人の境目であるからといってそれが、苦しむという事象につながるとは思えない。
先ほど私は何かしらのストレスを抱えていたはずだ。

子供と大人の違いについて考える。私がnoteにわざわざ「人生について」という命題を打ってまで、思考をまとめようとしているのだから、子供と大人の転換期には苦しみがあるはずである。
何が苦しいのか?
何かしら苦しいことがあるから、わざわざ時間を割いてこのようなことをしているのであろう。
もし、私がこれ(note)を書くことが好きであると仮定する。考えられる理由としては、思考を具現化したい。つまりはあいまいなものに一定程度の確実性をもたらしたい。体系立てて考えたいと考えていることになる。なぜ、体系化したいと考えているのかというと、人生をマニュアル的に対応したいと考えているからだ。人生に起こる諸問題をマニュアル的に解決したいと考えているからだ。
私はかなり物事を定量化して考えたいと思っている。人間のその時々の感情で物事を考えるのはあまり合理的ではないと考えているのだ。

「私はシステマティックに物事を考える人間である」②

なぜシステマティックに考えるのであろうか。システマティックは機械的であるといえる。自己規律は機会的であるといえる。なぜならば、その時々の気持ちで行動を選択していたら、大成することができないからだ。

つまり「私は、自己規律を徹底すれば成功できる」と考えていることがわかった。③

こう考えるようになったのは、高校受験の経験があるだろう。堕落していた状況から、徹底的に努力したことで、合格したという経験があるからだ。

つまり私は、「徹底的に努力することが出来れば、成功することができる」と考えているということだ。③

最近、私のメンタルヘルスが悪化していたのはこの規範意識と反する行動をとっていたからに違いないのだ。

「人間は、規範意識と相反することをしている時に強いストレスを感じる」④

話は少し前に遡るが、私は大人への転換期にあたり精神的ストレスを受けているからnoteを書いているのではなく、好きだから、noteを書いているということが分かった。

しかし、noteをまとめるという行為を大学生である今、にしているのはなぜであろうか。なぜ、今か。何かしらのストレスが加わったから、これを書き始めたに違い無い。これまではある種、「書かない」ということを選択していたのだ。

規範意識と現実の行動の違いにストレスを感じることは、これまでも多々あった。しかし、これまでは他の方法を見つける。納得する方法を見つけるなど、noteを「書かない」という選択をとったのだ。
しかし、今回は大学生になり、パソコンをもったこと、時間が確保できていること、そしてそもそも何回もこれおを経験してきたことでnoteを「書く」という選択に行動が分岐したのだ。

このことから、同じ思考というか、同じ精神的な状況でも、周りの環境、そもそもそれに陥ることになる回数、などの条件によって行動が変わるのだ。

どちらが正しいということはない。その時の最善の選択を私はとっているのだから。こう考えると、無意識化の意思決定はおそらく大量に行われていることがわかる。

このことは、この世のすべてをシステマティックに考えることの難しさを表しているのではないか。

「私は、抽象的に考えるのが好き」
同じような意味で
「私は、物事を抽象化して考えるのが好き」⑤

今、私は抽象的な思考をしている。正確にいうと、抽象化して思考しているといえるのかも知れない。抽象化することは、新たな事象に対応できるということを示す。つまり、抽象的に考えることはシステマティックに考えることと似ているということだ。

システマティックという言葉を辞書で引いてみると、「組織的、計画的」という言葉が出てくる。抽象化の反対は、具体化であるのは間違いないのだが、非組織的という言葉と、直感的に結びつかない。

「システマティック」と「抽象化」はどこが似ているのだろう。
私の「システマティック」という考えは、イメージすると樹形図が思い浮かぶ。つまり、とある問題を条件にかけて分類していくのだ。機械的でミスがなさそうであるのが、私の好みだ。その時々で答えが変化しないのがいい。
それに対して「抽象化」は共通項探しといったイメージがある。つまり、物事の本質がそのなかに入りこんでいる可能性があるということだ。
よくよく考えると似ていないような気がしてくる。

いま思いついたのは、樹形図を分けていった際に、例えばAがあるところに新たにEが追加されたとする。それは、AとEが同じだから、というとあいまいでわかりにくいと思う。
ある集団Ωを2分割したAとBがあるとする。具体的に言えば体重が60kg以上がAで未満がBとする。Aにいる人をaとして、Bにいる人をbとすると、新しく来た人eは、「体重」という概念によって分けられるのだ。ほぼ論理学めいたことをしているような気がする。

これは「抽象化」にも同じことが言えるのだ。
AとEはそれぞれ「体重が60kg以上」という要素をもっていたのだ。

結論として、「システマティックに物を決めるときの条件設定と、抽象化するときの共通項を見つけること」が同じであるから、似ている感じがするということがわかった。⑥

((共通項)>(本質)であることに注意)

今日はここまでにしよう。
次回は、その反対の「具体化と非システマティック」の関係性について考えることができればよいなと思う。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


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