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【運転見合せ】阿房列車

電車に乗ろうと思う。
最寄りの都城駅で乗車して、京町温泉駅まで行ってみるつもりだ。
京町温泉に用事は無いので、温泉に入るとか、蕎麦やうどんを食う、といったこともしない。調べてもいないので、京町温泉がどんな場所なのかも知らない。
下手に調べてしまうと土地に興味が湧いてしまい、「この旅館の温泉に入ってみよう」といった用事が生まれてしまう。
用事を持たずに、ただ行って、帰ってくるつもりだ。


行き帰りの車中、電車の座席に座りながら、頭を冷やそうと思っている。
彼女から「君は少し頭を冷やしてきなさい」と言われたところだったから、電車の座席に座って、しこたま頭を冷やそうと目論んでいる。
しかし、頭を冷やすという目的のためだけに、目的地に用事もなく電車に乗ることは、お金も時間もかかるため、無駄な行為といえる。
ただ単に、座席に座るのであれば、家にあるピアノ椅子に座ればよい。
いざ座ってみると、ショパンのノクターンなんかを練習したくなるもので、しだいに練習にも飽きてくると、手淫がしたくなるわけであって、これは、私にとって世の常といえる。
ショパン手淫手淫ショパンショパンショパン手淫、をやっていると非常にダウナーな気持ちになり、結局、頭を冷やすどころではなくなる。
つまり、手淫の好きな人間が、家の椅子に座って、真剣に物事を考えたり、頭を冷やすということは不可能な行為であるのだ。
では仮に、喫茶店の椅子に座ったとしても、自分が長居することで、店の回転率に悪影響を与えているのではないかという自意識が芽生え、思考の邪魔をして、頭を冷やすどころではなくなってしまう。また、映画館の座席に座っても、そもそも映画を楽しむ気持ちで入館しているから、言うまでもない。
したがって、私が頭を冷やすのに、最も丁度良い環境とは、金を払って行動の制限を得られる電車の座席ということになる。
ただ座って、頭を冷やすというのも少々味気ないので、水筒オン・ザ・ロックのウイスキーを舐めたり、文庫本を読んだり、練習中の古典落語をつぶやいたり、程度のことはするつもりだ。
それに、ただ座る、ということは結構難しい。無心で座ることを、仏教用語で「只管打坐」あるいは「身心脱落」といい、座禅の仏教、曹洞宗の道元禅師が至った境地・教えであるわけだが、私には分からないので、ウイスキーは舐めるし、本は読むし、落語もする。


「君は少し頭を冷やしてきなさい」と言われた経緯についてだが。
先週、会社の同僚宅で、同僚とそのご伴侶と私と彼女の4人で酒を飲んでいた。
私は、彼女とゆくゆくは一緒に住みたいと思っているとこを同僚に打ち明けた。すると彼は、「いいかい、君は山奥に住む鬼だ。人間と暮らせるわけがない。たまに人里におりてくる程度がよろしい。分をわきまえるべきです」と私を諭した。
彼女の手前、ウソでもいいから反論すべきところを、私は、同僚の的を射た発言に、心底納得してしまい「まったくですね」といって顎に手をおいた。
その様子に彼女が不満を抱いたことを、ご伴侶が耳打ちしてくれた。
私は、彼女と二人きりになったタイミングで、反論しなかったことに謝罪して、実はすでに一緒に暮らすための不動産を探していることを伝えた。それで機嫌を直してくれた。ここまでは、いい感じ雰囲気であった。

後日、一緒に物件を見に行って、私達の関係に亀裂が生じた。
不動産屋に聞いていた内容よりも、遥かにすごい物件であった。
その物件は、なかなかの山奥にはあるものの、ハリウッドスター邸宅のような門があり。そこを抜けると、両サイドには、噴水が並んでいる。庭には遊歩道があり、プールがあり、池が4つあり、クレソン畑があり、猪威しがあり、屋外スクリーンがあり映画を映せる。さらに、井戸があり、バーベキュー場があり、温泉が湧いている。母屋には、バーカウンターがあり、オープンテラスが4つあり、囲炉裏付きの和室があり、暖炉の付きの洋室があり、ベッドルームがある。そして、離れには、音響設備が整った屋外ステージがあり、ライブができる。
そして、価格が1,700万円と、妙に安い。恐らく何かある。クレソン畑の下に人骨は埋まっているであろう。それでも構わない。私は魅了されていた。
私は、「ここ良さげじゃありませんか?」と聞くと、
「良さげではありません。冗談のつもりですか。生活感がまるでありません」と怒っていた。
空気を読まない不動産屋は「それもそうですよ、お金持ちが、完全に趣味とノリと勢いでおっ建てた別荘なんですからねぇ~。当然、都市ガスではなく、プロパンですよ。あと電波も弱いでしょ。うん山奥ですからね。池とオープンテラス無駄に多いなぁ。ステージも維持するの大変でしょうねぇ~。誰を演るんですかねぇ~。てかここ熊でてこないっすかねぇ~。猪は絶対いますよ。たぶん。あと鹿も。猿もいるかな。マムシとヒルもいるかな。病院も遠いし噛まれてら大変ですねぇ~。そうそう小学校もこの辺りありませんから、子育ても難しいと思いますよぉ~。あ、蚊にさされた。土砂崩れとか心配ですねぇ」と彼女の心の不満をすべて代弁した。
それでも食い下がっている私に対し「君は少し頭を冷やしてきなさい」と言い残し姿を消した。連絡も取れない。

そんなわけで、私は電車に乗ろうと思う。
最寄りの都城駅で乗車して、京町温泉駅まで行ってみよう。
用事を持たずに、ただ行って帰って、頭を冷やすのだ。
始発に乗ろうと、息巻いて、家を出たら、世紀末のような雨だった。
『宮崎県 本日2020年7月4日 竜巻注意報 発令中』
玄関先、一歩目でずぶ濡れになり、二歩目で草履の鼻緒が切れ、三歩目で今朝剃った髭が生えた気がした。
「負けるものか。今日、ちゃんと、私は頭を冷やすんだ」
ようやく駅に着いた。切符を買おうと改札に近づこうとすると、
駅員さんが瞳の力で脳に直接語りかけていきた。
「運転見合わせに決まってんだろ」
「そりゃそうよね。駅員さん。頭を冷やすってなんなんです」
「いいから帰れ、阿房」

そして、そのまま帰宅して、このなんともいえぬこの感じを文字にした。

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