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どう在るか

おはようございます。

河野企画代表、チューバ奏者、指揮者の河野一之です。

僕たちの人生は日々ほんの些細なことから大きなことまで僕たち自身が行なっている”選択”から成り立っている。

朝起きるタイミング、歯を磨くかどうか、どんな交通手段を使って勤務先にいくか、何時に帰るか、そして何時に寝るか

本当は全部自分で決められるけど、多くの場合惰性で決めてしまうことが多い、なぜか?その方が楽だからだ。

一つ例を上げる。

河野家は基本的に三食しっかり食べる家だった。母の作ってくれる料理は本当に美味しかったし、幼少の頃から間食をする習慣も無かった。三食出してくれる料理を堪能するには間食が邪魔をしてしまうことがわかっていたため、自分自身我慢していたというより間食をする欲求がなかった。

でもおかげで僕は太った。三食のうちならどれだけ食べても良いという教育を受けそれが習慣化していたため例え一人暮らしをしていても必ず三食お腹いっぱいになるまで食べていた。

今現在178cmある身長で体重が平均68kg、すごい忙しい時期に入ると65kg, しこたま食べても69kgぐらいでこの辺りを継続している。

しかし当時は82~3kg、そんな中英国に2年間留学するということでラーメンを食べ収めし88kgまで体重が上がった状態で留学をした。

そんな中”河野家”という習慣を作っていた場所から2年間完全に離れた河野はそこで初めて「自分自身で自分の人生を構築する」という作業に集中ができた。

食事の回数、生活のリズム、全て自分で組み立てられるという贅沢に気づいたのだ。(やってもらえる贅沢や幸せは十分に理解し感謝している。)

そこで変えたのが運動と食べるものの変化と食べる回数だ。

まず手当たり次第、思いつく限り筋トレをを始めた。

さらに食べるものも少しづつ変化させていった。
(例:これまで鳥もも肉を皮ごと食べていたけれど皮はなし。徐々に部位ももも肉から胸やささみにするなど)

そしてさらに1日の摂取カロリーをなんとなく考えてみた時、あまりストレスなく存分に毎食食べるのであれば1日三食から二食に減らしたら良いと考えた。

ボディービルダーのように完全なカロリー計算など面倒だし、会食の際に人に気を遣わせたく無いしラーメンも食べたい。

そうすると呪いが解けたようにするすると体重は落ち88kgあった体重は約2年間で64kgまで落ちた。20kgの減量に成功したのだ。

ここで少し病的な見た目になったため食べるものの選択は継続しながら現在は平均68kgになっているし筋トレをやめヨガを中心に行なっている。

どうしてもタンパク質や他栄養素が足りない場合が多いと考えたためビタミン入りのプロテインも日に2度の食事の際に摂取している。

自分で自分を作っている。自分で自分の人生を作っている。

食べない贅沢、持たない贅沢
Happy days!

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惰性でやらない

僕たち人間も他の動物同様どこまでいってもただの動物だ。どれだけ高尚なことを考えていても本能には敵わないし、しかも習慣になったりすると惰性でものごとを行なってしまう。

・小腹が空いたから、口さみしいから何か食べる。
・毎日飲んでいるから酒を飲む
・給料日だから何か買う
・惰性で仕事を続けてしまう
・考えるのが面倒だから固定費には目を向けない
etc

とか出せばキリがないけれど”惰性”で行なっていることは本当にたくさんあるはずだ。

ちょっと矛盾するが”惰性”で行うという選択を”自分の意思”のもと行えているのであれば別に問題はない。その惰性で形作られる人生を謳歌すればいい。何も悪いことはない。

しかし、例えば「惰性で仕事を続けてしまう」。
やりたくない仕事、給料が低い仕事、転職がめんどくさい、、、

この選択肢をわざわざ選んだのあれば良いけれど、果たして生涯一度の人生。今この瞬間が人生で一番若い今この瞬間!それを選ぶのだろうか。

僕ならNo.だ。滅多にしょうがないから選ぶということはしない。

しょうがない=仕様が無い=他に手段が無い、なんていうことは本来は”無い”はずだ。

習慣化し、もはや文化になっていた”河野家の一日三食”、これは僕を20kg太らせ、もしかしたらあのままいったら糖尿病、高血圧、ガンの家系の僕も若年性の病にかかっていたかもしれないし、そもそもカッコいい音楽家を目指す僕の理想には程遠い。

あの”一日三食”が間違いと書いているのではなく、
あの選択を”自分でしたのかまたは惰性でしたのか”

ということが大切だ。

毎日行う食事、一日一食でも10年で3650回、70年生きて一日一食でも25,550回、これが二食なら、三食ならと増えていく。それら一食一食の選択が自分の意思か惰性か

どこかで一度考えてみるのもいいんじゃ無い?

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全ての物事は本来は自分で決められる。


極論、この世界では自死も可能になっている。

僕の考えだけれども、「どうせ最後は死ぬんだし」という考えが少しでもあると選択肢を選ぶ際にもっと自由になれる。

どう生きたいか、どう自分という存在を在りたいか、在らせたいか

それは日々のほんの些細な選択から成り立っている。

さぁ、何を選ぼうか





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