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【泣】少年野球に熱中した父親の末路(12)

 4年生になるころには、ジロウはピッチャーとして投げさせてもらえるようになっていた。
 4年生以下のジュニアチームの試合では、エースで4番が当然のようになっていた。6年生にも通用する球を投げるジロウの出番は必然的に増え、私は完全に浮かれていた。お世辞だと分かっていながら「プロを目指すんですか?」などと言われると顔が緩んで仕方がなかった。私がジロウを鍛えたことが結果に結びついたのだと、私の努力を認められた気がした。

 いくつかのメダルを手にした4年生の秋ごろから、ジロウは時々肘を気にするようになった。整形外科で診てもらったがその時は異常なしで、それ以後は「なんかおかしい」というジロウの言葉をすべて「大丈夫大丈夫!」と私は取りあわなかった。

 ジロウが5年生に進級する際に、3年間Aチームの監督をつとめていたキュウジ君の父親が辞めることになった。キュウジ君が中学3年生になるので、しばらくそちらのチームの応援や手伝いに行きたいという理由だった。
 そこで、家族の病気を理由に退いていたK監督が呼び戻された。70歳に手が届きそうなおじいちゃんだったが気力も体力も十分で、昭和的な指導をする人だった。

 K監督にも気に入られたジロウは、6年生を差し置いてエースナンバーをもらった。試合の勝敗は大げさではなくジロウの出来にかかっていた。他にあまり期待できるピッチャーがいないこともあり、ほとんどの試合をジロウが先発し、たくさんの球数を投げた。

 そして5年生の秋、ジロウの肘はとうとう壊れた。
 手術適応のギリギリ一歩手前で、医師からは1年近い完全休養を言い渡された。

 病院から帰る車の中で私はイライラした口調でジロウを叱った。

 「なんでもっと早く言わなかったんだ!!!早く治療すれば治るのだってはやかったんだぞ!!!」

 ジロウは後部座席でゲーム機を操作しながらふてくされてこう言った。

 「何度も言ったじゃん」

 ジロウとの野球の思い出はほぼこれで全部だ。いや、正直に言えばここから先を書くべきか、今少々悩んでいるところだ。なぜならここから先の思い出にジロウはほとんど出てこない。


 


 

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