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【学びの記録】ゲシュタルト療法 Day1-2

これから1年間続くゲシュタルト療法の学びが昨日から始まった。
貴重かつ濃密な学びの体験を忘れてしまうのは勿体ない。
可能な範囲で感想と今の気持ちを残しておくことにした。

(でもエネルギー使いすぎて気力がないため、簡単にだけ。)

※ちなみに、これはあくまで私視点で書いたものです。
ゲシュタルト療法は哲学なども取り入れていて、とても奥深い学問です。簡単に言語化できるようなものではないため、現在の私にとっての「ゲシュタルト療法はどんな存在なのか?」を言語化しただけだとご認識ください。



Day1-2を終えた今、私の中に強く残っているのは
「それで、私はどう生きたいの?」
という人生の問い。

だれに頼まれたわけでもなく
なんの利益が生まれるでもないのに
私は精神探求を四六時中ゴリゴリやってきた。

子どもの頃からの習慣だから、これは間違いなく「得意なこと」。
故にその探求を通して得たものを活用して生活をしていくと決めた。

今流行りの言い方をするなら
「得意を仕事にする」とか、「好きを仕事にする」とかかな。

ただ、私にとってその質感はキラキラしたものではない。
探求すればするほど、取り憑かれたように精神の世界に入ってしまう。
(「精神」がどの領域を指すか?の理解が曖昧だけど、ここでは一旦「目に見えない領域(=思考と感情)」を「精神」として書きました)

それは時に恐ろしく、足場が不安定になり、目に入るものすべてを信じられなくなることもある。まさに命懸け。

その道を究める、というのはかなりの覚悟を要すること。
それはたぶん、どんな職業でも、どんな道を選んでも、同じことが言える。

今年入ってから私を見ていた人ならわかるかもしれないが
つい最近まで、一歩間違えたら戻ってこれなくなるギリギリのところにいた。何度も生きる気力を失いかけては戻ってくるのを繰り返した。
(心配してくれた友人には感謝しているよ。ハラハラさせてごめんね)

いくら精神探求が好きとはいえ、あまりに不安定すぎる。
それじゃただ自分が苦しいだけで、何かに活かせているとは言えない。
どうにかバランスを取る術を身に着けなくては…。

という気づきが起きたタイミングで始まった、ゲシュタルト療法の学び。
これは今の私に必要な学びだ!と、Day1から確信した。

Day1もDay2も人間の闇と光から生まれる葛藤を目の当たりにして
強烈な「生」を感じる濃密な時間となった。

ゲシュタルト療法の学びに期待するのは
「ありのままの自分」と出会いながらも
現実で起きていることを認識する力(外部領域)と
自分の内側で感じていることを認識する力(内部領域)と
いわゆる「思考」(中間領域)の違いに、より自覚的になり、かつ適切に使い分けられるようになること。(私の理解に誤りがなければ)

事実と解釈をごっちゃにせず、俯瞰して自分を観察した上で、シンプルに「自分がどうしたいか」を問い続ける。それは人間として、自分らしく社会を生き抜くために必要な在り方が身に着くことに繋がる。

私が今生きている世界は、過去の私の選択の積み重ねの延長線上にある。
私の人生の責任は私にしか引き受けられない。

つまり、本当の意味では、自分の人生では何をやってもいい。

社会のルールは誰が決めたのかもわからない虚構であり、個人が縛られるものではない。そして自分の人生は自分のものであり、他者に文句を言われる筋合いもない。
(一方で、他者にも文句を言う権利があり、その権利を否定することはできない)

同時に、人間は社会性のある生き物。すべてのルールを無視し、他者を跳ね除けて生きていくのは果たして本当に幸せか?という問いが残る。

だから「何をしても良い」中で、「どんな自分でいたいのか」をもとに
「どう生きるのか」を自分の責任で選択し続けている。苦しい中に喜びのある行為。

人生に正解なんてない。正解を決めるのは自分。だからこそ葛藤し続ける。
ゲシュタルト療法は、その葛藤との向き合いを支援できる手段のひとつ。

人間の人生の一部分をワークを通して見せて貰える貴重な場でもある。
葛藤しながらも前に進もうとする人間の生命力、場に溢れ出る強い感情、赦しが起こる瞬間の美しさ。言語化がまだうまくできないけど、そこには「人間らしさ」の魅力がたくさん詰まっていた。

そんな濃すぎる空間を全力で味わう2Daysだった。

もっとしっかりした言語化をしたかったけど、気力がもうゼロなのでこのへんで。笑
気が向いたらリライトします。。


ご一緒したみなさま、お疲れ様でした。
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