生い立ち

私はバツイチ独女の30代。これまでたくさんの経験をしてきた。
これは、私の生い立ちから現在〜未来への独り言ノートとする。

〜幼少期〜
私が3歳の時に両親は離婚した。原因は父の女遊びなのか価値観の違いなのか何なのか、未だにハッキリと解らないが離婚後も両親は険悪な関係ではなかったのは確かである。私が物心ついた時には既に母ひとり子ひとりであった。

私が幼少の頃は大阪の豊中市で育った。母は生計を立てるために働いていたため、鍵っ子で1人には慣れていた。
寂しいと感じたことは無かった様に思う。お金に困ったという記憶もない。
母は仕事が好きであんなにも働いていたのか、はたまたそうではないかは分からないが、私に不自由させないように一所懸命に働いていたのは幼いながらに理解していた。

〜未曾有の大災害〜
平成7年1月17日、私が小学校1年生の時に阪神大震災が起きた。幸い私たちは無事であったが、母ひとり子ひとりであったため、母は地元の愛媛県に転勤願いを出して転勤することとなった。大きな災害や万が一何かあった時に、地元に住んでいた方が良いと考えたのだろう。

小学校2年生になるタイミングで愛媛に移り住んだ私は転校し、高校卒業まで愛媛で暮らすことになったが、中学になると反抗期がやってきた。
言い合いが絶えず、母には苦労をかけたと今でも反省している。
当時の事を振り返り、母と話すことがあるが、母は母で「寂しい思いをさせた。」「抱きしめることもしてこなかった」と何度も言うが、母に責任はないと思っている。

〜高校中退から高校卒業へ〜
高校生になり、看護学科の高校へ進学した私は、半年で自主退学した。看護師になる気がなくなってしまったのだ。私立高校であったため、入学金やら制服代やら高いお金を無駄にした。
中退後はアルバイトをかけ持ちして、自分の携帯代を払うようになり、自分で自由に使えるお金に魅力を感じた。また、未成年ながらに社会で色々な人と話したり関われる楽しさに目覚めてしまった。
ところが、心の奥底には「中卒でいいのか」という思いがずっとあり、とある決心をした。

ある日私は卒業した中学校へ出向き、当時の担任に高校をもう一度受験したいと教えを乞うた。
既に卒業している私は中学からの推薦は貰えない為、受験するには自力で一般試験を受ける必要があった。

そこから私は塾へ通い、中学の時にしてこなかった勉強をし始めた。
私が行きたいと思っていた高校は学費の安い国立の大学附属高校だったが、一般試験は当時倍率が6倍。6人に1人しか受からない状況だった。
どうしても受かりたかったからか、受験の日、試験を解き終えた私は不安と達成感?とで大号泣したのを覚えている。勉強を一生懸命したのは人生でこれが初めての体験だった。

高校は無事受かり、1つ下の年の子たちと共に無事3年間学生生活をして卒業し、見事高卒資格を得たのであった。

〜進学〜
高校生活を送りながらも私はアルバイトは続けていた。
その時にとある飲食店で外国人の方とお友達になる機会があった。
当然英語が喋れるわけでもないが、単語とジェスチャーで何とかコミュニケーションを取った。
頻繁にカフェでお茶したり、他の外国人たちを紹介してもらったりして色々な国の人と出逢い、世界の広さを少し感じることができた。
それがキッカケだった。「色々な世界を見たい。」そう思った。

そして私は高校卒業後、大阪のエアライン学科のある専門学校へ進学した。CA(キャビンアテンダント)になろうと思っていたのだ。

専門学校は当然学費も高ければ、県外の為一人暮らしもお金がかかる。私は母にこれ以上迷惑をかけたくなかったので、市役所へ相談に行き奨学金の制度を利用し無事入学したのであった。

専門学校では勉強についていくのが必死だったが、とても楽しかった。レストランと水商売のアルバイトをかけ持ちし、遊びながらも勉強して何とか英検2級を取ることが出来た。(英検2級は航空業界をエントリーするのに必須だった)

〜落とし穴〜
私は母の居る愛媛で就職するつもりで居た。今考えると、そんな急いで地元に帰らなくても良かったのだが、母の事が心配だった。
しかしながら、専門学校1年目にして大きな事実が発覚した。
それは、CAとして働く場合、愛媛に住むことが出来ないということが分かった。
CAになる為に奨学金を借りて大阪へ単身で行ったのに、地元に住めないという所で、2つの選択肢でかなり迷った。
一つ目は、地元を優先してCAを諦める。
二つ目は、地元を諦めてCAを目指す。

迷った結果、私は地元へ帰ることにした。CAを諦めて、地上職に就くことにしたのだ。所謂グランドスタッフとして空港で働くことにした。

母はCAを目指せと言っていた。
私もCAに憧れがあった。

でも、気持ちに正直になると地元へ帰りたいという気持ちの方が大きかった。

〜就職から転職〜
某航空会社のグランドスタッフに採用頂き、地元へ帰ってきて働きだした。CAとはまるで違う仕事内容だが、やり甲斐のある楽しい仕事だった。
しかしながらこれもまた1年程で自主退職してしまった。

当時母はそんな私にお金を無駄遣いしたとヤンヤン言っていたが、私も仰る通りだと思った。申し訳なかった。

その後、美容部員、コールセンターを経て保険会社で電話営業の仕事に就くという、結局私は何がしたかったの?的な転職ストーリーとなった。この時点で27歳になろうとしていた。

〜母の圧力〜
母は39歳の時に私を産んだ。
単純計算すると、私が27歳になった時に母は66歳。
母の周りの友人達には孫が居て、優雅な暮らしをしている人が多い中、母は現役バリバリで働いていた。
そんな母がある時から「結婚」「孫」というパワーワードを繰り返すようになっていた。

当時の私はあまり結婚に対して興味がなかったが、あまりにも母の圧力が強いため、口論になることも少なくなかった。

しかし、「結婚なんかいつでもいい」と言いながらも、母の気持ちは分かっていた。

〜出逢いと別れ〜
古くからの友人の紹介でとある男性と知り合うことになった。私よりも11歳年上の人だった。
彼は出会ってすぐ結婚しようと言い、何故か私も結婚しようと思い、スピード婚を果たした。

母は大喜びしたし、親戚も友人も喜んでくれた。

これで親孝行できるかなと思っていたが、そう簡単なものではなかった。

私は結婚後3回妊娠した。

しかし3回とも産まれてこなかった。

なかなかメンタルに堪える出来事でそれが3回も続いたことで、色々と夫婦間でも歪みが生じるようになった。

内容は端折るが、私は結婚4年目にして離婚を決意した。

このままこの人と何十年先も一緒には居られないと、そう思ったのだ。

離婚に関してはたくさんの反対があったが、もう決めたことと言い張り、私は離婚した。


〜後悔〜
離婚数ヶ月後、前の夫は自死してしまった。

書きなぐりの遺書を遺していた。内容は「お金を私と両親とで分けてくれ。マロ(飼っていた犬)を頼みます」と。

その字は普段書いている字ではなく、震えていた。
私に対する謝罪のようにも感じた字だった。

離婚をした事に後悔はないが、私は自分を責めた。

あの時こうしていれば、こうならなかったのではないか?

あの時優しい言葉をかけていたら、こうならなかったのではないか?

私が離婚しなかったら死なずに済んだのではないか。


たくさんの時間をかけて色々な事を考え、軽い鬱のようになった。

身近な人が亡くなってしまったことは、とてもとても、大きなショックだった。


続く

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