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司馬遼太郎と伯耆国倉吉
…20年前に訪れた時は古い屋敷や商家があり…
…古格な佇まいが残っていて、家々の軒下の風情を楽しみながら
歩くことが出来た…
…しかし大きな通りが出来てしまい、歩きたい道筋が見当たらない
と司馬遼太郎に伯耆国・倉吉に書かれたためか
倉吉が商業の中心であった昔の姿を再現しようと思い立ったのが
倉吉の経済界の方達であった
私の知人の一人は、関東から来た建築士のSさんで
もう一人はネパール関係で知り合った建材会社のMさんだった
この人達が、死んだような古い街の店主や家主を説得して
再生したのが「白壁土蔵群・赤瓦」である
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立役者の一人Mさんは
アフガニスタンの山に登頂された程の探検家でもあったが
当店に来店されるようになり、毎回、色々な話が弾んだ
そして何年後か、病気で声を失ってしまわれた
しかし、その後も来店し続け、筆談で会話をされたが
町作りの志半ばで、50代で他界された
多くの人々がMさんの早すぎる死を悼み涙した葬儀の後
Mさんの奥様が来店され
「夫は鷹揚とした人間に見られていましたが、案外人の好き嫌いがあって
こんなに一つの店に通ったの初めてです。これを受け取って下さい」と
形見のネクタイを差し出されたのだった。
ありがたく頂きましたが、思いを託されたのか、理解者として認められたのか、今でもそのネクタイをすると身が引き締まります。
この頃、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読み直していますが
そんな事を思い出してしまいました😓
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