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自分と違う他者を受け入れる世界は (その1:座談会と少しビジテリアン大祭)


先週、「ば project」主催で行った、座談会〈『ゆめパ』座談会 in 佐渡島 ~青山誠× ば project~〉と、今週「筵cacaoclub」さんが開催した「ビジテリアン大祭」で感じた事を書きたいと思う。

子どもの居場所について考える自主企画の座談会と、客として遊びに行った、菜食をテーマに開かれたイベント。座談会単体レポートはまだ編集中で、その最中にいきなり脱線するようだけど、僕の中では繋がっているので良しとしたい。

【食にも多様性を】


ビジテリアン大祭は出店もライブも素晴らしかったけど、ビーガンディベートを聴けた事が僕にとって大きかった。

全て聴いた訳ではないけど、何も知らない僕にはとても必要な情報だったし、ちょっと勘違いしていたな、と反省もした。

ディベートの中で

「ビーガンもそうで無い人も(宗教その他の垣根も超えて)一緒に囲める食卓を」「ビーガンという選択肢がある世界」

という意味の言葉が出てきたが、これは

「自分とは違う部分を持っている人のそのままを受け入れて暮らす」
「みんなでと同じ選択をしなくても良い。強制も矯正もされない世界」

という事ではないだろうか。

座談会で話し合った事、『ゆめパのじかん』を鑑賞して感じた事ととても似ている。

以下は、『ゆめパのじかん』を観て(パンフレットも読んで)の僕自身の感想と座談会での僕の発言をのまとめ、補足、修正したものを。


【ドキュメンタリー映画って】

僕はドキュメンタリーが苦手だったのだけど、この映画は好きだなと。

というのも、映像化するからには、必ず撮る人の意思が映る。

悪く言うと、監督のエゴが出る。

監督が伝えたいテーマがあって、それに合うシーンだけを集めてくれば、実際に起きている事と異なったドキュメンタリーを作成する事も可能だ。そして、シーン一つ一つは事実であるから、あたかもそれが真実のように映る…かもしれない。

それが苦手な理由だ。


ただ、『ゆめパのじかん』は映っている子ども達(大人も)のありのままを感じる。

会った事ない人ばかりだから想像でしかないけど、そんな気がする。


「ゆめパーク」には一度だけ行った事がある。

この映画の上映をガシマシネマにお願いしたタイミングで、ちょうど近くまでいく予定があったので、いきなりお邪魔させていただき、勝手に中をウロウロさせていただいた。

たった1日様子を見ただけで何がわかるかと自分でも思うが、そこに流れていた空気と映画から感じる空気が似ている気がする。

監督は、この場所を、ここにいる人そのまんまを撮りたかったんだなあと。


この監督の作品は、他も観てみたい。

「さとにきたらええやん」も、見たいなあ。



【多様に学べる…けど】

予告編でも流れた、西野さんの言葉。

「学校行かなくても多様に学べるよって周りの大人は言ってくれるようになったけど」

の「けど」という部分。


世の中は

「そうは言っても、学校行くのが当たり前。それが普通。だよね?」

が、まだまだ強いと思う。

基本は進学一択。

ちょっと一休みも受け入れてもらいにくい世界だ。

この考えはあまりにも根強すぎて、なかなか変わるとは思えない。


ここで、いきなりビーガンディベートの話に戻るが、「ビーガンという選択肢もあっていい」という考えは、教育の世界にも必要だと思う。


僕は多分、今後も普通に肉も魚も食べると思う。

さまざまな食に関しての疑問も持ちつつ。

でも、もし、「やっぱり食べるのやめたい」となったら?

その時に「ビーガンという選択肢もあるよ」というのはとても安心するのではないか。


「学校いやだ」

となったときに

「いかなくても、学べる世界があるよ」

という選択肢があれば、とても安心じゃないか。


しかし「基本進学一択」という考えがその安心も崩してしまう。

学校に行けなくなった場合。

学べなくなっている本人が一番困っているのではないのか。

なら、少し休んで再スタートして、学べる場所を他で見つけて何がいけないのか。

どうしても皆一緒でなくてはダメなのか。


いろんな理由を聞いてもイマイチ納得できない。

多様に学べるという発言は単に流行りに乗った言葉なのか。

だから「けど」と言わざるを得ない。

なんとも、苦しい。



【保育園と小学校の差】

「ゆめパのじかん」にはあまり小さな子ども達は出てこないが、何となく、保育を繋がるものを感じた。

なんか、園での生活に少し似てるなと。

もちろん、色々な園があるので、僕の知っている範囲の話だけど。


子ども達が保育園から小学校に進学する時、それは昨日と今日という時間しか過ぎていない。

それなのに、なんでも一人で出来る事を求められたり、突然関わってくれる大人が減ったり。突然ルールが増えたり…

昔とはかなり変わってきたというし、実際聞いた話からも随分過ごしやすくなったように感じるけれど。

そして、保育園は、学校の接続を意識した活動も行うけれど。
それでも、あまりにも保育と教育は違っていないだろうか。


【一人でできなくても良くない?】


なんでも一人で出来る事は凄いかもしれない。
でも、それをスタンダードにされると全員辛い。


大人の世界もそうではないか?
出来る人は背負い込み、そうで無い人は肩身が狭い。
辛い気持ちと、申し訳ない気持ちで出来上がっていく社会。

楽しいだろうか。

優しいだろうか。

助け合えばいいだけではないのか。

認め合えばいいだけではないのか。


しかし、そうはならず、みんなでがんじがらめになって沼に沈んでいくような社会になっていないだろうか。


「私達は苦しかった。大変だった。だから、あなた達も同じ様に苦しみなさい。
何のためにやってるかわからないけど、とりあえずやる事になっているのだから。みんなそうしてきたの。確証はないけど多分それがあなたのためになるの。
別になにも変わらないし、楽にもならないけど。
でも、そういうものだから。」


そんな声が聞こえる気がする。


しかし『ゆめパ』からは、そこにいる大人達からはそれを感じない。
子どもの声を聞いて、見守って、時にいい塩梅に口を出して。

大人と子どもがせっかく一緒にいるのだから。
共に考えて生きていきたい。


つづく!


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