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「いじめられる方にも問題がある」は論理的におかしい

 私はとある事情から、議論や論理学に普通の人より詳しい。

 私が精神分析で”論理学者型”に分類されているのも関係しているかもしれないが、他の論理学者型に会ったことがないのでサンプルがなく、検証できないのは残念だ。

 そんな人間だからこそ、よく世間で言われている議題や問題の瑕疵に気づきやすい。ここで話すのは、よくある「いじめている方といじめられる方はどっちが悪いか」という話題における、「いじめられる方にも問題がある」という論調についてだ。

 はっきり言って、この論調はレスポンスになっていない。なぜなら、「悪いか悪くないか」という議題において「問題がある」と答えているからだ。

 仮にいじめられている方に問題があるとして、それは悪いか悪くないかという回答にはなっていない。簡単に言えば、お門違いな回答である。この形式の回答は、上司の口からよく聞く、ずるい大人がやりがちだ論法だ。「AかBか」と尋ねているのに、「Cではない」などとわけのわからないことを言い出す。

 では少し言葉を変えて、「いじめられる方悪い」ならどうだろう。

 それを聞くと、「うーんまあ確かにいじめられる方にも問題はあるし、悪いと言えなくもないかも」と思う人もいるだろう。しかし、これもよく人が惑わされる論調のひとつだ。言うなればこれは言葉の混同である。

 「いじめる方といじめられる方のどちらが悪いのか」という議題における「悪い」は、一般的に、社会的に悪である、というニュアンスで使われている。

 それに対し、「いじめられる方も悪い」という回答における「悪い」は、間違いがある、正しいことをしていないというニュアンスで使われている。

 すなわち、「悪い」という言葉の意味がそれぞれ違うということだ。だから、悪いと言えば悪いし、悪くないと言えば悪くないような気がしてしまう。人は頭の中で、ひとつの言葉からそれらのニュアンスを混同している。だから訳がわからなくなる。

 近い例を挙げるなら、「空き巣に入った窃盗犯と、鍵を閉め忘れた家主はどちらが悪いか」というところだろう。これは一般的、社会的な悪はどちらかという話であれば窃盗犯が悪いに決まっている。しかし、間違いがある、正しいことをしていないというニュアンスであれば家主も悪いように感じる。つまり、「悪い」という言葉が同じ言葉なのに違う使われ方をしているということだ。

 これは、よくある「どこからが浮気なのか問題」にも共通する。手を繋いだら浮気だとか、デートをしたら浮気だとか、そんな主張をする人もいるだろう。しかし、はっきり言ってそんなものは浮気ではない。それはただの、あなたにとって許せないことに過ぎない。

 浮気という、許されない行為に当てはめたいだけであり、そのために浮気を拡大解釈している。わざわざ浮気という言葉に当てはめる必要などない。「浮気じゃないが、私はそれを許せない」と言えばいいだけの話だ。しかし、いじめの時と同様、人は自分の都合の良いように言葉を拡大、あるいは縮小解釈する。

 このように言葉は、同じ言葉でも違う意味を持ったり、違うニュアンスで話しているのに同じ言葉を使っているということが日常会話の中で嫌というほど起きている。こういった言葉の分裂や拡大縮小に気づけないと、「自分の言いたいことがわからない」とか「なんか言いたいことと違う…」というような違和感が生まれやすい。

言葉は気持ちを伝えるツールに過ぎない。あなたが伝えたいのは言葉そのものではなく、気持ちのはずだ。言葉に引っ張れて、気持ちを見失わないためにも、言葉の持つニュアンスに目を向けることが必要だと私は思う。 


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