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ASOBIJOSの珍道中②:1束のセージ@LA


ベニスビーチ、LA、2023年2月16日

 ”君は英語もよく話せるし、海外には慣れているね?ベニスビーチは前と比べたら随分綺麗で安全になったよ。だけど、観光客まる出しじゃダメだよ。iPhoneを見ながら歩いたり、カバンを置いてトイレに行ったりしない。わかるね?あと、タダであげるって言われても、何も受け取らないんだよ、いいね?”
 と、初老の黒人タクシードライバーが忠告をくれました。2月の半ばだというのに、LAでは、常夏のように陽光が燦々(さんさん)と輝いています。ベージュのハンチング帽に白髪が覗くこのドライバーにはどこか品格めいたものが感じられました。私のことを”Sir”と呼び、”I like Sushi”などと安直に会話を始めるようなこともありません。丁寧な英語で語ります。
 40年前にエチオピアから船に乗って移民をしてきた時、どれだけ希望に胸が膨らんでいたか。人種間の衝突も多く、血まみれの暴動を何度も目の当たりにしたこと。自分が体験してきた、ホテルの掃除係に、皿洗い、ゴミ清掃員、織物工場での労働のこと。そして、昔のエチオピア出身のマラソン選手のことなど…。
 ”昔、アベベっていうエチオピア人が裸足で走ってオリンピックで優勝したんだけど、知らないかな?本当に私たちは貧しかった。靴一つだってロクに買えなかったんだ。有名なマラソン選手だって、毎日スラムをジョギングして、子どもたちとハイタッチをしていた。賞金だってほとんど寄付してね。そういうスターがみんなの希望だったし、そういう人になりたいって思って生きてきたんだよ。それが今、エチオピア人ランナーは世界一になったって、あっちこっちにマンションを買って終わりだよ。Just a change, but a lot has changed, sir,  a lot has changed……”

 さて、予約していたゲストハウスは、高いヤシの木が風にゆったりとゆれる、砂浜の前に建っていました。玄関のインターホンで”Come in”と言われて、重々しい鉄の扉を開けると、そこには切り立った崖のような階段がどこまでも高く、そびえていました。
 ”まじかよ。”
 MARCOさんも私も、飛行機の重量制限まで着物と本ばかりをぎっしりと詰め込んだ、23キロのスーツケースを片手に、呆然と立ち尽くしました。”これをよじ上ってこいと。どおりで安いわけよ。マジでクソ。クソクソクソ!ねみぃし、あぁ〜もう、帰りたい。もう一個スーツケース持ってきてたら死によったわ、、、。これだから貧乏は、、、。おれだって金持ちのマダムと、、。あ゛ぁ〜!?”
 とまぁ、海外初日、止むことなしの弱音の嵐でした。

 この晩は私の友人の自宅を訪問し、夕食をご馳走になりました。私たちの他にも数人が集い、そこで各々が楽器を演奏したり、色々な土地や、共通の友人のことなど、さまざまなことを話題に、歓談しました。そこで、私がブラジルで新聞記者をしていた時のことが話題になった時、こんな会話があったのが一つ心に留まりました。
 ”一つ面白かったのは、ブラジルの移民社会をよく見ていると、戦後のアメリカの影響や経済成長で日本人が失ったものが、だんだんと浮き上がって見えるようになってくるんだよ。”
 と私が言うと、その場にいた一人のLAの医学生の青年がこうぽつり、と。
 ”逆にね、僕が日本に行くと、アメリカがかつて持っていたものが今も日本の中に生きているようにも思えてくるんだよ。なんていうか、スーツを着て、規律があって、、、。”

 翌朝、普段だったら眠れるはずのないほどダブダブにたわんだマットレスの上で目を覚ますと、すでに午前10時を回ったところでした。モントリオールへの飛行機はさらにもう一泊した後の午後でしたので、ベニスビーチと呼ばれるこの辺りをゆっくり散策することにしました。

 アボット・キニー・ブールバードという、小洒落たギャラリーや雑貨屋、レストランの並んだ通りをぶらぶらと歩き、一軒のカフェに入り、ブランチを食べました。ナッツや豆がこんもりと盛られたサラダに、”そうだ、欧米はサラダで一食が完結するんだった”と笑い合い、ようやく和やかな時間が流れ始めました。
 落ち着いて見渡してみれば、日本から来たばかりの私たちの目には、何もかもが新鮮でした。コーヒーは薄くて、ありえないほど大きなカップに淹れられて出てくるし、トイレから出ると、日本ではまず見かけないくらい横にも縦にも大きい人が立っていて驚いたり、となりの席にやたら豪華な服を着た人が来たな、と思って振り向くと、白熊まがいの巨大な犬がちょこんと座っており、主人は平然とコーヒーを片手に本を読んでいたり。衣服の色彩も柄も、香水の匂いも、話し声や笑い声の大きさも、全て日本では規格外なのです。
 ”まわりのお客様のご迷惑に、、、”で育った私たちは、本当にコソ泥みたいに、ヒソヒソキョロキョロニヤニヤ、としていることに気が付いて、一層おかしく思えてしまいました。”私ら、日本では変なやつなのにね、、、。”

 さて、あの医学生の青年がこのアボット・キニー・ブールバードをおすすめしてくれたのですが、一軒、”面白いよ”、と、「MedMen」という名前のお店を紹介してくれていました。大麻商品のお店です。ここLAは、2016年から大麻の娯楽的使用も含め、合法です。21歳以上を証明する書類さえ見せればだれでも店内に入り、買い物をすることができます。
 そこには、大麻の成分を練り込んだグミや、お菓子、もちろん、大麻の花穂そのものも、ガラスのショーケースに入れられて、まるで宝石のネックレスかのように並べられ、精神作用のある成分の比率、香りの成分の名前や、味の表現まで、アロマだ、柑橘系だ、ナッツ系、草原の香り、と、まるでワインやコーヒーみたいに書かれて売られているのでした。
 もちろん、善良な日本国民である私が、”ミントやレモンのように爽快でシナモンのようにエキゾチックに甘い”、なんて代物を買うわけなどありません。それを持って、燦々と陽光が白波に散るビーチでふわふわと潮風を抱きしめ、しばしの心の静寂を味わうなんて、まさか。


 端的に言って、LAは、人々のヘッドホンの音がダダ漏れなのです。自分の好きなもの、気分、思ったことが、なんのためらいもなく、つぶやかれ、叫ばれ、歌われ、それが街中に充満しながら成り立った社会なのです。”あぁ、いい天気だ!”と大あくびをする人も、”お前のコート、最高だ!”と突然言って、親指を立ててくる人も、両手を繋いでいちゃいちゃしながら歩く同性愛者も、大麻を咥えながらスケートを滑らせ、追い越し様にウィンクをよこし、そのまま両手を大空に向かって広げながら滑走していく男も、、、、。大きなワイヤレススピーカーを片手に持って、爆音でヒップホップをかけながら散歩している人さえいますし、それを迷惑がるどころか、その音の感じに踊り出しちゃう人がポツリポツリと集まり出し、幸福そうな調和の渦ができてしまうのです。


 ”もう少しあったくなったらバスキング(=路上パフォーマンス)しに来たいね”などと話しながらビーチの前の通りを歩いていると、突然、私は何やら抗い難い香りに誘われ、あれよ、あれよ、と吸いよせられるままに脇にそれ、気がついたら1束のセージを掴んでしまいました。目の前には、背の小さな、鼻の尖ったアジア人のような顔をした男が机にセージの束を広げています。
 ”私たち、インディアン(先住民)にとってこれはとてもとても神聖なものです”
 と、その男は魔女のように、縁の長い帽子からギロりと瞳を覗かせて、私を見つめました。
 ”これはただのハーブじゃない。私たちアジア人にしかわからない方法で、真実を伝える。私たちは遠く離れた家族でしょう?同じ肌、同じ髪の色。”
 私の右手は、こぶりのバナナほどの大きさの、ホワイトセージに花飾りがなされた束に、ぴったりと張り付いてしまったようでした。
 その男は優雅に、大きなセージの束を焚きながら、その煙を自分の顔の方に被せるようにして、鼻をクンクンと、”Very holy… Veeeeery  holy"… と呟きました。それがあんまりなもので、お願いだ、これ以上やると、いま私の右手が確かに感じている神秘が崩れてしまうから、やめてくれ、と私の方から頼みたくなるくらいでした。
 値段を聞くと、”これは神聖なものだから、選ばれた人の手に行けばいい。あげるよ。”と言います。思わず、”それはダメだ。”と言うと、”寄付なら”と答えるので、財布を広げると、10ドル札と、50ドル札がありました。
 私はここで、自分がこのたった1束セージを、私の人生にとってかけ替えのない一つの神秘にするか、単なるいい香りのハーブにするかを選ばなくてはいけない、という妙な責任感に駆られ、迷わず、50ドル札を差し出しました。
 それを横で見ていたMARCOさんがすかさず、
 ”おい。”
と言いますと、この男は少し慌て、他にも何本かセージの束を添えて私に差し出したのでした。
 ”まあ、高いようだけど、なんかこれが宿命的な50ドルだったような気がするんだ”、などと言いながら、また、上機嫌でベニスビーチをぷらぷらと歩き出しましたが、ふと。そうです、あの冒頭の、あのタクシードライバーの言葉がチリーンと頭に響いたのでした。
  

 


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