キャンセルカルチャーについて考える

私がキャンセルカルチャーについて考えてみようと思ったのは、昨今の松本人志氏の性加害報道もあるが、直接的なきっかけはYouTubeの水道橋博士のチャンネルで配信された『【LIVE】映像業界の性暴力と加害について…【月2博士と町山】』で、映画監督に性加害を受けた睡蓮みどりさんが、「作品に罪はないと思うがそれは違う」という趣旨のことを発言されていたのを聴いたからである。同様の発言を睡蓮さんは映画秘宝3月号のインタビュー記事でもされていた。もちろん被害を受けた方がそのように感じるのは理解できる。ただ、その後、性加害を犯した人が将来にわたって作品を作る、ないし関わっていくことについて、肯定できるかというところまで踏みこんだ話がされていたように思う。すまりそれはキャンセルカルチャーの話で、世はキャンセルカルチャーを認める傾向にあるという。これに私はショックを受けた。というのも、私の中ではずっと「キャンセルカルチャー=否定すべきもの」という認識があったからである。

私が最初にキャンセルカルチャーという言葉に触れたのは、2019年にピエール瀧氏が麻薬取締法違反で逮捕されたのを受け、彼が所属する電気グルーヴの全楽曲がCD回収、配信サービスでの配信停止に追いこまれたあたりである。その時に、こんな記事こんな記事が出ていた。定額配信で聴いていた音楽が聞けなくなり、私も「キャンセルカルチャーゆるせん!」となっていた。私の記事でおなじみのダースレイダー氏が、回収撤回の署名運動をしていたことも記憶に新しい。また、映画監督ジェームズ・ガンが過去に不適切なツイートをしていたことが掘りおこされ、『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』続編の監督を降板せざるを得なくなった事件もあった。この時も、キャスト達がガン監督の復帰運動をしたおかげで、最終的に復帰できた。結果その監督作品はガン監督の経緯も含めて感動作となった。

このように、キャンセルカルチャーには負のイメージしか抱いてこなかった私は冒頭の件でショックを受けたというわけ。ここであらためて、「キャンセルカルチャー」をWikipediaで調べてみた。

キャンセル・カルチャー英語: cancel culture[1][2][3][4])とは、主にソーシャルメディア上で、過去の言動などを理由に対象の人物を追放する、現代における排斥の形態の1つ。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ここで注目なのは、対象が「人物」であるという点で、「作品」ではないということ。そうすると、この問題に対して「キャンセルカルチャー」を持ちだすのは適切ではないのか。

これが英語版だと、このような表現になっている。

Cancel culture is a phrase contemporary to the late 2010s and early 2020s used to refer to a cultural phenomenon in which some who are deemed to have acted or spoken in an unacceptable manner are ostracized, boycotted, or shunned.

Wikipedia, the free encyclopedia

つまり、「排斥、ボイコット、忌避される」とある。排斥とボイコットでもだいぶ強さに違いがある気がするが。で、同じ英語版によると、キャンセルカルチャーは表現の自由的立場からは否定されている。オバマ元大統領、ドランプ元大統領、フランシスコ法王が反対的立場のほか、多くの学者も否定的立場であるという。一方で、キャンセルカルチャーは権力を持たない、弱い立場の人々に発言権を与えるので、利点があると主張する人もおり、議論の対象になっていると。これについても分からないではないが、これが、「南北戦争の南軍の将軍の銅像を撤去」ということになると、どうしても、「それでいいのか」と思ってしまう。やっていることとしては、2001年にタリバーンがバーミヤンの仏像を爆破したのと表面的には同じだからである。

これが人でなく作品となると、もっと微妙になってくる。たとえば、KKKを肯定したひどい内容だが映画技術としては斬新であった『国民の創生』は放送、配信禁止されるべきか?ナチス礼賛映画であるレニ・リーフェンシュタール監督の『意志の勝利』は?

映画でも、対象の人物がどの程度関わったのかによって濃淡も違う気がする。例えば、出演者である場合はどうか。強制わいせつで刑事告訴、訴追されたケヴィン・スペイシーの場合、Netflixが、彼が出演中であった『ハウス・オブ・カード』の「以降の」出演をキャンセルした他、『ゲティ家の身代金』では、彼の全出演シーンが代役で撮り直しとなった。ただ、彼の過去の出演作については、配信停止とはなっていない。彼の過去の出演作も『ハウス・オブ・カード』の過去の出演作も配信されている。ちなみに、ケヴィン・スペイシーの男性4人に対する9件の性犯罪容疑について、2023年に無罪評決が出ているとのこと。

日本においては、前述のピエール瀧氏の出演作がこの問題に該当する。例えば、彼が出演した映画『宮本から君へ』が、日本芸術文化振興会jにより助成金交付を取り消しされるという事件が起きる。これについては、制作会社が助成金交付を求めて最高裁まで争われ、最終的に制作会社側が逆転勝訴したが、「薬物乱用の防止という公益」をたてに一時はキャンセルされる危惧もあった。また、主演の能年玲奈(のん)の問題もあり、なかなか再放送されなかったNHKの連続ドラマ『あまちゃん』がやっと再放送された際、ピエール瀧氏の出演シーンはカットされるのでは?という懸念もあった(実際にはカットされず初回放送時のまま放送された)。この時に電気グルーヴの回収事件が起きたことを考慮すると、日本の方がキャンセルカルチャーにやや肯定的に思う。この件について更に考慮しなければいけないのは「被害者の有無」で、瀧氏の場合は誰に加害をした訳でもない訳だから、もっと酌量の余地があってもよかった筈である。

次、プロデューサーが当事者である場合。これはもろ、ハーヴェイ・ワインスタインの案件が該当する。が、過去に起きたことでもあり、彼がプロデュースした映画作品群が回収や配信停止になったとは聞かない。私としても、大好きなタランティーノ作品が二度とお目にかかれないとなったら、とても堪えられない。これは映画がプロデューサーのものというより、監督のものであるという思いも手伝っているだろう。

では、監督自身が当事者だったら?これが一番やっかい。先の『博士と町山』に出演した睡蓮みどりさん、加賀賢三さんが被害にあっているのが正にそれ(榊英雄監督、松江哲明監督)であるし、海外の例でいえば少女淫行容疑をかけられているロマン・ポランスキーが挙げられる。被害を受けた当事者であるお二人にとって、当事者の監督の作品がその被害にあった作品だけでなく、過去未来どの作品についても見たくないというのは想像はできる。睡蓮さんはそれだけでなくポランスキー作品についても、「見る気がしない」という発言をされていた(出典は失念)。私は想像力をはたらかせ、『童貞をプロデュース。』のような、事件が起きていた作品を敢えて観たいとは思わない。ただ、ポランスキーの『オフィサー・アンド・スパイ』については特に障害は感じないし、鑑賞していい作品だと思った。ポランスキーを挙げるなら、ウディ・アレンもチャップリンも該当することになるが、特にチャップリンの作品はやはり嫌いにはなれない。

個人的所感はさておき、どうすべきなのかというと、最低限のことしか言えないだろう。当事者の作品と認められるものについては、被害者が存在する場合、被害者がそれを観ない権利は保障されるべきだし、それ以外の者にも選択する権利は与えられるべき、といったところだろうか。

さて、最後にお笑いの話である。前の記事でも書いたと思うが、一口にお笑いといっても、形態も内容も多種多様なものが存在する。松本人志氏の場合は特に顕著である。その中で、今回の性加害や上納システムに関連するものもある。が、あまり関連しないものもある。このことも前の記事で述べた。
もう一つ、仮に松本氏が今回の問題をなんらかの形で清算し、お笑いの仕事に復帰したとしたらどうなるか。テレビ以外の、舞台や有料配信のような形であれば、彼の活動を妨げるものはないかもしれない。が、「お笑い」という性質上、ハードルが確実に上がってしまっているのが問題だと思う。さすがに私も彼を(彼で)笑えないと想像する。


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