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探究のしろもの

私が日々多くの時間を割く仕事にも今の情勢は大きな影響を与えています。これまでになかった、しなければならないことももちろん多くあります。けれど、しなくてよくなった、対応のために手間や時間を割かなくてよくなった(もちろん今だけの一時的なものですが)ことも多くあるのです。そのために、時間がとれる。考えることに時間がとれるのです。そして、考えたことを、実行する際のイメージをしてみる。可能な限り具体的に想像してみる。そこで、イメージが不明瞭なものについて、ネット検索をしてみる。その程度のアクションで拭えそうなもやもや(不明瞭)を、全部潰していく。それでもやっぱり、残る疑問、拭い去れないもやもやが残ります。それを解消するのに何より頼れるのが、書物であり、本ですね。図書館は、公共施設であるせいか、私の身近なところにあるものはいずれも閉館中。書店ではなかなか見かけないような貴重な資料が多いのが図書館の魅力ですからそこは惜しいのですが、今できることをすればいいので気にしない。で、場合によっては休みなど取得して、いつもの日常にはつくりづらい時間を確保し、いざ本屋さんなど行ってみる。頻繁に行ける近さにあるお店よりも、ちょっとだけ足を伸ばして、いつもより大きいお店へ行く。すると、ネット検索では晴らせなかったもやもやを解消してくれる狙い通りの書籍が豊富にあるどころか、たくさんの「めっけもん」があり、出会いをするのです。いやぁ、本屋さんが、この情勢においても営業を続けてくれていてよかった。営業時間を短くして、なんてところも結構多いのかもわかりません。私と似たような動機を持ってか、ぜんぜん違うきっかけからかは知りませんが、店内には動きのあるお客さんの姿がいっぱいです。

私は、もともと、ひとりでできる楽しみを多く持っていた一人かもしれません。自然を観察することが好きでしたし、音楽が好きでした。釣りをしたり、楽器の演奏や歌唱をしたりするたのしみを、ずっと昔から持ち続けてきました。釣りや楽器といった楽しみには、もちろん初期投資や保守管理の費用がかからないわけではありません。とても高額になる固有の道具類もあることとは思います。でも、道具に、一定の機能以上の付加価値をやたらと求めでもしない限りは、かなり最低限に抑えつつ楽しめる道でもあります。その最低限の道具を手にして、あとは、探求するだけ。どういうわけか、その世界を探るほどに、自分のことを突きつけられ、向き合わざるをえない状況になるのです。

そうした探求を持って、ふたたび人間どうしの社会に帰ってきたときに、嬉しい特別な気持ちを味わえるのです。探求の経験があったから、わかること、気付くことがあります。比べる材料があるのです。集団で生きることの幸せを知るのに、孤独は有用だと私は思っています。

「非日常なような日常」においてできることをするほどに、「まるで日常のような日常」が返ってきたときに気付くことが、わんさかあるのではないかなと思って、今からすでにわくわくしています。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

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