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清濁中の影

クリアウォーター下における釣りは難しい。水が澄んでいる環境では、こちらから向こうが丸見えならば、向こうからもこちらが丸見えということだ。魚たちに、簡単に警戒を与えてしまいかねない。

こちらのことを見透かしているであろう人には、それ以上立ち入ることが難しい……という比喩にもなる。もうこちらの度量の底が見切られていて、そのポテンシャルのなさから、それ以上の関係になることがない、なんてことが現実にありそうだ。

濁った水は、栄養に富んでいる場合がある。もちろん、単に汚いだけの場合もあるだろう。綺麗な水に、魚が棲まないというわけではない。いるところにはいる。

水の清さを、組織の清さに喩えたとする。そういった組織も、あるところにはある、ということになる。

ナントカ少年団とかいう組織が児童文学なんかに出てきた場合、そこにはたいてい純粋な心を持った少年、あるいは何かしらのおのれの存続を左右するような重要な課題を抱えた主人公なんかがいて、そのまわりには、太っちょの食いしん坊とか、体力に劣る博学な眼鏡少年とか、おしゃべりなお調子者だとか、危険をたしなめる女の子だとかがいるのである。

この多様性が仮に富栄養性だとするならば、純粋な心を持った主人公的な少年ばかりの集団は、栄養に乏しい澄んだ水みたいなものだ。

多様な種や個体がいる状態だと、環境に劇的な変化があって、ある者にとって生き残ることが難しくなった場合でも、他に生き残る者がいる確率が高い。純度が高い、種や個体の多様性に乏しい集団は、ある状況にはすこぶる強いが、ある状況にはすこぶる弱い、ということになりかねない。濁ることは、生物の戦略だともいえるし、自然の摂理だとか、物理法則みたいなものなのかもしれない。不勉強なので、わかりかねるが……

濁れば濁るほどに、豊かで環境の変化に強い生態系かといえば、そんな単純な話でもない。……不純な話、とでもいっておくか。不純も清純も、ほどほどに。

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