『征服と文化の世界史:民族と文化変容(中)』トマス・ソーウェル著、2004


感想

4章 スラブ人

4-4. ロシア帝国

外国人

このような外国人要員や装置、資本の流入は、一九二〇年代のソビエト経済の回復で終わったわけではない。五ヵ年計画初期におけるスターリンの「社会主義建設」の多くは、実際にはヨーロッパとアメリカからの資本家によって実施されているのである。一九三六年の段階でさえ、重工業部門だけでもおよそ六八〇〇人の外国人専門家がいると報告されており、そのうちの約四分のはアメリカ人技術者であった(231)。スターリンの第次五ヵ年計画にみられる最大のプロジェクトは、アメリカ人技術者によって設計された製鉄所であり、それはインディアナ州ゲーリーの製鉄所を模範としていた(232)。九二八年から一九三二年にかけての間、ソ連の製鉄・鉄鋼所は一般的にアメリカ人によって設計されており、アメリカ人技術者(ときにはドイツ人も)の監督下で建設されたものである。そして、それはアメリカやドイツからの資材をもってつくられた。一九三○年までソ連自動車産業は、ツアー時代からのフィアットのトラックを生産していたにすぎなかった。共産主義体制下における最初の新しい自動車工場は、一九三○年代初期にフォード自動車会社によって建設されているが、それはフォード有名なリバールージュ工場を範にしてつくられている。ソ連がヨーロッパ最大のトラクター工場を建設したとき、それはアメリカでつくられたものをアメリカ人技術者の監督下において組み立てたものであった。(236)

p. 316)

現在、日本は中国の経済成長を手助けしたことを悔やむ時期に来ているが、同じことをアメリカが経験していたことは知らなかった…人間は本当に歴史に学ばないものである…

別の見方をすれば、上で挙げられているような、技術が確立されており、所謂「装置産業」というものは、社会主義・共産主義国でも比較的導入が容易であることも伺える。これまた、70年代以降の改革・開放時代の中国における日本企業との類似性を思い起こさせる。


ウクライナ

…一九一七年にツアーが打ち倒されると、ウクライナ人民共和国が宣言され、ロシアとの協調下で自治を得るようになる。しかし、これはモスクワのソビエト当局の容認せざるところであった。共産党はウクライナでの投票のうちわずか一〇パーセントを獲得したにすぎなかったものの、いわゆる「全ウクライナ人民会議」が開かれ(ほとんど全員がロシア人であり、そのうち約四分の三がボルシェビキであった)、ソビエト・ウクライナ政府を宣言し、モスクワに支援要請をすることになった。

こうした要請を受けてロシア軍がウクライナに一九一八年一月に侵入し、モスクワ支配下での共産党体制を押しつけた…

pp. 331-332

今も昔もロシア人がやってることは変わらん(笑)

現代的な関心としては、特にソ連統治下のウクライナでの政策に興味があるが、ポロドモール以外は簡単に済まされている。詳細が知りたければ、ウクライナの専門書にあたるべきなのだろう。


中央アジア人

ツアーと共産党の両体制下で、ロシア人が中央アジアに移住しているが、彼らは政治支配をもくろむのと同時に、そこでの伝統的生活様式を断絶させている。多くの中央アジア遊牧民が依存してきた家畜の群れを、放牧できる場所が次第に少なくなっていった。それはロシア人が土地を取り上げて経済再編を図ったからである。ヨーロッパへの綿花供給を断つことになる南北戦争は、中央アジアでの綿花栽培を拡大・向上させる結果となる。そしてそこから、ロシア帝国とそれに続くソ連が綿花の主要生産地となっていくわけだが、その役割は二〇世紀後半まで続くことになる(314)。もっとも、中央アジアのこれらの農業は深刻な副作用をもたらした。様々な穀物に対する水の需要が大きかったため、一九九〇年までにアラル海は水位が低下して以前の半分程度となってしまい、水量も半分以下になってしまったのである。

pp. 338-339

世界史の広がりを感じさせる事例。

ソ連軍における中央アジア人の大半は建設部隊に属していた。ただ、先進技術を扱う部隊にあっても、中央アジア人は技術をあまり要しない作業につく傾向にあった。中央アジア人兵士に対する人種差別と民族的軽侮も珍しいことではなかった。彼らのうち将校になったり、再入隊できたりした者は非常に少なかった(327)。多くの中央アジア人にとって兵役は明らかに非軍事的なものであり、武装していなかったり、武器の使用訓練を受けていなかったりした。しかし、中央アジア人は国内治安部隊の中核であり、その中には監獄の看守や強制収容所グーラーグの看守などがいる。こうした役割において彼らは、収容されているロシア人に君臨して、痛めつけるという稀な機会を有することになる。その任務における残忍さで彼らはつとに名高かった。(328)

pp/ 341-342

汚れ仕事をマイノリティにさせる例。ただ、こうした慣行が現在まで続いているなら、アジア系の兵員を、同じアジア系の人間に管理させることはありえるのかもしれない。

各中央アジア民族集団のこのような目立った特徴にもかかわらず、彼らの社会的・文化的親近性は多くの点で示されている。ソビエト時代、中央アジア人が自国外に居住する場合、彼らは同じ中央アジアの他の共和国に行くのが一般的であった(333)。同じく、ある国の中央アジア民族の人が国外の人と結婚する場合でも、それは様々な国に住む別の中央アジア民族との間のものであるのが普通であった(334)。中央アジア人のこうした文化的親近性は国際的にも示されている。一九七〇年代におけるアフガニスタンのソビエト軍中央アジア人部隊は、現地アフガニスタン人と懇意になったが、彼らは民族的・文化的に非常に似かよっていた。そこでソビエト政府は、中央アジア人兵士をヨーロッパ部隊に代えたのである(335)。これは、軍隊においてはロシア人が中央アジア人を信用しないという長い歴史を反映しており、ツアー時代にまでさかのぼるものである。徴兵は「万人に」という一八七四年の勅令にもかかわらず、中央アジア人は現実的には一九一六年の崩壊寸前のときまで徴兵されることなく、彼らを徴兵しようとしたところ、中央アジアで武装蜂起を誘発する結果を招いている。(336)

pp. 342-343

現在のウクライナ戦争との違いが興味深い。問題は反乱だけではなく、それこそ中央アジア人に「人的資本」が圧倒的に不足していたということもあったようで、それが流石に現代だと大分改善した、ということもあるようだ。


4-5. スラブ人移民

…二つの世界大戦のはざまの二〇年間において、ポーランド国籍をもった移民二〇〇万人以上が故国を後にしているが、そのうちおよそ九〇万人が帰国している。フランスはポーランド人だけでみれば最大の受け入れ国で、六二万二〇〇〇人以上のポーランド人が移住しているが、そのうち約三分の1は帰国している。農業労働者としてポーランド人季節労働者を長らく受け入れてきたドイツでも、そこに移住したおよそ四七万五○○○人のうち九〇パーセント以上がやはり帰国している。しかし、同時期にアメリカに渡ったおよそ二七万二〇〇〇人のポーランド人移民のうち、帰国した者は一万二〇〇〇人に満たない。(354)

当たり前の話だが、「移民」といっても永久に新しい国にとどまるとは限らない。出稼ぎ感覚で最初からある程度稼いだら母国に戻る計画の人もいる。

ここから先は

244,142字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?