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停滞と偶然ーーポール・オースターの遺作『Baumgartner』

わたしたちがいま日本語で読む「文学」作品。それらは果たして世界に広がる文学界の最先端をどれだけ反映しているのだろうか? ともすれば日本語市場という特異な環境は、世界の文学的な状況とは全く異なったガラパゴスなものを普遍だと勘違いさせてはいないだろうか。

この連載では海外事情に詳しい井上二郎とともに、未邦訳の巨匠たちの作品を紹介し、世界文学にいま起きていることを探っていく。

第6回で取り上げるのは、日本でも馴染み深いポール・オースターの未邦訳(一部が邦訳され、『MONKEY』に掲載済)の遺作『Baumgartner』。今後出版も予定されているだろう、ポール・オースターの遺作はどんな作品なのか。
(執筆・井上二郎、バナー・小鈴キリカ)

*4月に更新予定でしたが執筆者都合により一度更新をスキップしてしまいました。この場を借りてお詫び申し上げます。

 まずは個人的な話とお詫びから。この4月に東京からロンドンへと移ることになり、それが決まってからというもの、身辺の整理や職場の引継ぎ、家族や友人たちとの別れなどで、この春は全てが瞬く間に過ぎ去った。こちらへ着いてからは次々に起こる新たな経験をよくよく咀嚼するまもなく、気がつけば2ヶ月が経とうとしている。こうしたこともあり、2ヶ月に一度の約束の連載を1回分休ませてもらうことになってしまった。

 こうした状況だったため、ポール・オースターの死を伝えるニュースを、少し遅れて知ることになった。最近は本当にいろいろな人がこの世を去っていく。「最新作」として書影を認識していた『Baumgartner』は、「遺作」へと変化した。急いでロンドン中心部の書店で本書を求めたが、さほど目立つところには置かれていなかったため、店員に在庫があるかと尋ねなければならなかった。

 当然のことながら、作者が生きているのと死んでいるのでは小説の受け取り方は大きく異なる。場合によっては物語が持つ意味合いを、完全に変えてしまうことさえある。

 オースターは最近まで精力的に活動していた。2017年に発表した過去最長の小説『4321』では、東欧からアメリカへと渡ったあるユダヤ系移民の「ありえたかもしれない」4通りの人生を描いた。昨年には、銃という米国にとって核心的な問題を問うノンフィクション『Bloodbath Nation』を発表したばかりだ。

 後述するように、その作品に一貫しているのは可能性への眼差しだと思う。いま・ここの自分がこの状態であるのは、単なる偶然に過ぎないということ。個人の人生も、社会全体も、少しの掛け違えで、全く異なるものになってしまうこと。

 どの作品が遺作となるかを、おそらく作家自身は決めることができない。たとえ、自らの死が執筆中に頭をよぎったとしても。

『Baumgartner』(ちなみにこれはドイツ語で「木の/庭園業者」という意味だ)は死を待ちつづけているかのような男を描く。そこには、確かに遺作めいた雰囲気がある。ただ、ある作品がその作家の遺作となることが本質的に個人の意思ではなく偶然の力学によって決まるのであれば、その力学そのものに、オースターの小説と響き合うものがある。

 新しく移り住んだ街で、そんなことを考えながらポール・オースターの最後の小説を読み進めた。

『Baumgartner』
Faber & Faber HP より

『Baumgartner』は、往年のオースターファンが期待するものとは少し異なるかもしれない。

 乱暴に要約すれば本作は、現象学を専門とする哲学教授・シーモア(Sy)・バウムガルトナーが自らの人生を回顧する物語だ。彼は71歳。十年近く前に死んだ妻の記憶に取り憑かれ、人生を前に進めることができない男として登場する。

 死んだ妻のアンナ・ブルーム(『最後の物たちの国で』のナレーターと同じ名前だ)と彼は、20代で結婚して以降、数十年にわたって共に生活した。アンナは独立した作家であるのに対し、バウムガルトナーは大学で哲学を教え、その関係はある種の「完璧」な夫婦として描かれる。ある日、アンナが突然、海辺で不慮の死を遂げるまでは。

そう、彼女が波打ち際に戻っていかなければ、彼女は死んでいなかったかもしれない。しかしもし私が、行きたいと言っている彼女を静止して戻らせる男だったなら、そもそも我々は30年以上も一緒に過ごすことはなかっただろう

『Baumgartner』P.31

その死から何年経ってもこうした思いを拭えずにいる男にとって、残りの人生はもはや牢獄であるに過ぎない。彼はその喪失を「幻肢痛」という比喩を用いて表現しようとする。「治療によってその幻覚は軽減されるが、完全に治す方法はない」(P.55)

バウムガルトナーの物語は、決して前へは動かない。彼は過去の記憶を懸命に探り寄せるが、それによって何も起こることはない。そこにはオースターの作品で描かれるような偶然が物語を突き動かしていくようなスピード感はない。いわば、停滞の感覚だけがある。

 オースター作品らしいところもある。たとえば小説の中に挟まれる別のテキスト。その中の一つ、アンナによる手記では、不自由のない恵まれた家庭で育った彼女が、いかに文学を選び取り、バウムガルトナーと出会ったかが、彼女の視点から描かれる。この手記は68年の政治の季節を背景としたニューヨークの状況や、アメリカ全体の時代の変化を描いたものでもあり、作品の中では数少ない躍動感や、広がりを感じることのできる部分だ。

 部屋の隅で立ちすくみながら、クローゼットの棚にしまわれたアンナのテキスト(彼女はタイプライターで書いていた)を、おそるおそる読み始めるバウムガルトナーの姿が印象的だ。すでに失われた人間によって書かれた、失われた世界についてのテキストを、記憶を、それによって何も生まれないことを知りながらも手繰り寄せ、新たな意味を見出そうとする老作家のイメージは、老いとは何かということについての考察とも読むことができる。前に進めなくなった状態で、人はいかに老いるのか。

 アメリカ文学に親しんだ日本人にとって、オースターは特別な作家の一人だと思う。彼を「難解な作家」として認知させた『幽霊たち』、同じく探偵小説のパロディである『ガラスの街』、個人のアイデンティティの探求が、歴史や社会のそれと重なり合う『ムーン・パレス』。おそらくは最も美しい構成を持つ作品のひとつ『リヴァイアサン』。より近年では『ムーン・パレス』を別の形で捉え直したかのような『インビシブル』。どれも忘れられない鮮やかさを持っていた。

 これらが一貫して「アメリカについて」(これはオースター自身の言葉だ)探求する物語であることも、作品群に重みをもたらしていると言えるだろう。

 冒頭でロンドンの書店について書いた。おそらく書店にはオースターを追悼する棚さえできているだろうと考えていた筆者にとっては、意外なことだった。同時にこちらで出会った(読書家の)人々にオースターについて尋ねると、それ程強い反応を示さないという印象も受けた。

 オースターがとりわけ日本で愛されたとすれば、それはなぜだろうか。

 もちろん、村上春樹氏とともにアメリカ文学の名作を多数紹介してきた柴田元幸氏が、そのほとんどの作品の翻訳を手掛けたことが挙げられるだろう。しかしそれだけではない。物語を駆動させる偶然性、小説の中に仕掛けられた別のテキスト、都市の光の当たらない部分への眼差しーーあるいは、謎、探偵、孤独、自己言及……。オースター作品を特徴付けるこうしたひとつひとつの要素が、アメリカ文化の影響を強く受けた日本の読者に、広く受け入れられる、というか「ハマる」ところがあったのではないだろうか。

 ちなみにオースターのパートナーで作家のシリ・ハストヴェットは、Lithubに寄せた追悼文の中で、オースターの作品は英米よりも、アジアや中東の国々において深く理解されている、という趣旨の発言をしている。(※1)その意図するところを完全に理解するのは難しいのだが、少しわかるところがある。オースター作品には、西洋的価値観から外れていくようなところもあったから。

『Baumgartner』は中盤以降、その動的な要素を失い、老作家は押し寄せてくる波のような記憶をひもとき、ただただ自らの過去と向き追うことになる。「なぜ束の間の、ランダムな瞬間が記憶に蘇ってくるのだろうか? より重要なはずの瞬間は永遠に消え去ってしまうというのに」(P.116)。その記憶の探求の中で彼は、東欧にルーツを持つ自らの父親と、対峙する。

 続く章では、バウムガルトナーが数年前にウクライナ西部を訪れた際のことを記した十数ページの文章が引用される。タイトルは『スタニスラフの狼』。だが実はこれはオースター自身がかつて自らのルーツを辿った旅について記した文章を、そのまま転載したものだ(※2)。もともとその全文が2020年にLithubに掲載されていた。ウクライナの村で出会った詩人が話した、大戦期の村の様子についての話を描くそのテキストは、次のような一文から始まる。

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