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SNSを予見する「散漫さ」――Evan Daraの『The Lost Scrapbook』

わたしたちがいま日本語で読む「文学」作品。それらは果たして世界に広がる文学界の最先端をどれだけ反映しているのだろうか? ともすれば日本語市場という特異な環境は、世界の文学的な状況とは全く異なったガラパゴスなものを普遍だと勘違いさせてはいないだろうか。

この連載では海外事情に詳しい井上二郎とともに、未邦訳の巨匠たちの作品を紹介し、世界文学にいま起きていることを探っていく。

第4回で取り上げるのは、1995年にアメリカでデビューして以来、ほとんど正体が知られていないエヴァン・ダーラ。ピンチョンをも凌ぐと言われた凄まじさをもつ実験的で野心的なデビュー作は前世紀末の作品ながら現在のSNS社会を予見する「有効期間」の長い小説だった。
(執筆・井上二郎、バナー・小鈴キリカ)

 例えば、スマートホンでSNSの投稿を次から次へとスクロールしている時のことを想像してみて欲しい。それぞれには関連がないエピソードの数々が、あなたの指によって画面の上へ上へと送られていく。
ペットに関する他愛のない投稿の直後に、誰かを告発する不穏な内容の投稿が続く。ある投稿に貼られたリンクをクリックすれば、別の記事が現れる。
多くの場合、あなたは集中して画面を追っているわけではない。散漫な、意識と無意識の間のような状態でそれらを眺めている。人差し指が絶え間なくスクロールを続ける間、これらのエピソードはあなたの中でどのように結びつき、記憶されるのだろうか。

 エヴァン・ダーラ(Evan Dara)の『失われたスクラップブック』(The Lost Scrapbook)を読むときの感覚は、ある程度までこうしたSNSをめぐる経験に似ている。この作品を構成しているのは、一見互いに関連を持たない、いくつものエピソードだ。
発表されたのは1995年、SNSはまだなかった。その意味で、やがて来る私たちの生活を予見したかのような作品だ。

 現れるエピソードは、音楽や科学などについて語られるものから、日常のちょっとした出来事についてのものなど、実に多岐にわたる。例えば、序盤には次のような話が登場する。

 クラシック音楽を研究する男性が、最近書き終えたという論文について語っている。その論文は、なぜ後期のベートーベンはその作曲能力の大半を変奏曲に費やしたのか考察したもの。当初男性は、ベートーベンが聴力をほぼ失ったことや世界情勢の影響があるのではないかと考え、論文の構想を練っていたが、その後しばし書かずに放置していた。
一方で男性には息子と、別居中の妻がいることが語られる。男性と一緒に暮らしていた息子は最近になり音楽に関心を持ったのだが、あるできごとをきっかけに、突然家を出て妻のもとに去ってしまう。
1人になった男は再びベートーベンについて考えようとする。やがて、変奏曲がベートーベンにとって何だったのか、ふっと理解する瞬間が訪れる。

「・・・おそらくそれ(変奏曲を作ること)は、問題解決のプロセスと関係している。別の言葉で言うなら、ベートーベンにとって変奏曲とは、音楽的に思考を継続する方法だったんだ、(中略)さらに言えば変奏曲とは、ぼくの思索がそうであるように、ある種のより高度なレベルの理解への探究であり、そして、ある種の中心的な真実に対して、理解を試み、その周りをぐるぐると回ることを繰り返す試みなんだ、けれども変奏曲は同時に、真実とは決定不可能だと言う決まり文句も示しているんだ、だからこそ変奏が必要とされるんだ、結局、僕たちが求めているものにたどり着くことはないのだから」

『The Lost Scrapbook』(Aurora, Incorporated; Aurora edition, 1995)
電子版を使用した。該当箇所はロケーション番号:670/8014

本質をつくような言葉が一見平凡なエピソードの中で突然あらわれ、はっとする瞬間がある。しかし数ページ読み進めると、やや唐突に全く別の人の、別の内容の語りに切り替わる。それが連綿と続いていくのである。

The Lost Scrapbook
Aurora HP より

 作者について簡単に背景を記しておこう。ダーラにとって初長編となる本作は、作家のチャード・パワーズほか、一部の批評家から高く評価された。けれども有名な文学賞を獲ることはなく、国内外で広く知られることもなかった。

 日本ではトマス・ピンチョンなどの紹介者として知られる木原善彦・大阪大学教授が唯一、ダーラを紹介している。ご本人の「X」(旧Twitter)への投稿によると『失われたスクラップブック』についても翻訳作業を進めておられるとのこと。ちなみに木原氏は、このシリーズの第2回で扱った、ベン・ラーナーの『10:04』の訳者でもある。
木原氏は『実験する小説たち』の中で1章を割いて本作を解説しているので、関心のある方はぜひ一度読んでみてほしい。氏が翻訳した『JR』(国書刊行会、2018年)で知られる作家ウィリアム・ギャディス(William Gaddis、1922〜)の作品との比較についての解説も興味深い。

 ダーラについては性別や年齢などその素性がほとんど明らかになっていない。メディアなどのインタビューにもまったく登場しておらず、アメリカ人であり現在はパリに住んでいるということを除いて謎の存在だという。
これが作家の魅力を高めている側面もあるかもしれない。本国では熱狂的なファンもいるらしく「EvanDaraAffinity」なるサイトも立ち上がっている。なお作品の発表は今も続けており、近年でも2021年に『Permanent Earthquake』という作品が出ている。

『実験する小説たち』(彩流社、2017年)
彩流社 HP より

 本作に登場するエピソードは、ざっと数えただけでも数十にのぼる。登場する語り手や場所については不明なものがほとんどだが、郊外や、都市以外の場所という印象を受けるものが多い。例えば次のようなものがある。

 アニメーションの絵と絵の間を補完する役割を担う「in-betweener」という仕事を担当する作業者の語り。投票しない人の声を政治へ反映させるための活動に力を注ぐ人の声。北米で最初の民主的な図書館を設立した祖父について話す男。
あるいはタバコの害についての討論。テレビドラマに影響され白血病の子どものためのドナーになろうと思い立つが、結局はそうしなかった女性。パートナーとのセックスの最中に広告が持つ根本的な暴力性について思いをめぐらせる女性。
突然、自宅の芝を綺麗に刈り取ってくれた謎めいた隣人について話す住民。ショッピングモールでぶつかった他人のウォークマンから、モールで流れている音楽と全く同じ楽曲が流れてきた経験について語る人。
知識人としてメディアに頻繁に現れる以前の言語学者、ノーム・チョムスキーについてのエピソードもある。

 郊外における人間関係の希薄さ、企業行動の愚かさ、あるいはメディアによるイメージの消費。中心的なテーマを抽出することは難しいけれども、いくつかのエピソードに共通しているのは、ある種の社会状況を背景とした、疎外の感覚だ。また、前に紹介したベートーベンについてのエピソードをはじめ、音楽や、言語にたいする作者の強い関心を伺わせるものも多い。

 短いエピソードが続いていくという意味では短編集の趣もあるのだが、独特なのはそれぞれのエピソードにはっきりした始まりと終わりがないこと。そしてそれらの接続が「気付いたら変わっていた」というようなかたちで行われることだ。SNSとの連想で言えば、ある投稿を読み終わる前に、次の投稿を読み始めてしまうようなイメージだ。
小説内にピリオドはほとんど使われず、改行、カンマ、コロンによって言葉が紡がれていく。その文体は、これらのエピソードが「声」である印象を強くしている。これも木原氏が指摘していることだが、運転中や眠れない夜などに、次々とチャンネルを変えながらラジオ番組を聞いているのに近いともいえるだろう。

 全体の雰囲気はどこか日本の現代口語演劇にも似ている。例えばチェルフィッチュの「三月の5日間」(初演は2004年)で、役者たちが互いに関係のない独白を延々と続ける様子は『失われたスクラップブック』に登場する人々の語りとどこか似通っている。リレーのように様々な人物のエピソードが描かれる『スラッカー』(リチャード・リンクレーター、1991)も想起した。決して読みやすい小説ではない。しかしダーラはこの独特なスタイルによって「見えない人々」たちの声を浮かび上がらせ、その声の中に共通して漂うある種の感覚を伝えることに成功している。

 しかし小説はそれだけで終わらない。全体の7割ほどまで読み進めるとこれらのエピソードはさらに断片的な言葉の切れ端へと変化していき、何やら意味をつかむのが困難になる。

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