教育改革の読み方

はじめに

こんにちは、最近学校というと常に何かしらの改革が必要だと言っている方がいらっしゃいます。
もう改革が多すぎて何をしたいのかよくわからないというのが、読者の現状ではないでしょうか?
私たちからすると、何を変えたいのか?教育は最終的にどういう目標なのか?この辺りがぐちゃぐちゃになっているのではないかと思います。
今日は学校の改革論には目標の段階で既に対立があるということを整理したいと思います。
少しでも、今起こってることの整理と理解に役に立てれば幸いです。

教育制度の3つの社会的目標

教育改革と言った場合、当然この場合の教育は公教育です。つまりは学校ですね。
この学校なんですが、そもそも単一の目的で動いてません。当然改革を言う人も、〇〇をすべきだという考えが多様にあり、対立や矛盾をはらみます。

アメリカの教育学者のラバリーによると、学校教育の社会的目的は、民主的平等、社会的効率、社会移動の3つと論じています。

デイヴィッド・ラバリー著 倉石一郎・小林美文訳(2018年)『教育依存社会アメリカー学校改革の大義と現実』岩波文庫

広田照幸(2019)『教育改革のやめ方ー考える教師頼れる行政のための視点』岩波書店 5頁

このままだと意味がわかりませんね一つずつ広田先生がラバリーの3つの社会的目的をまとめた図を使って見ていきましょう。

まず、わかりやすいのは、Cの社会移動です。これは、要するに子どもたちとその親の視点です。教育を受けてこれから被雇用者になる側の視点です。
例えば私たちが高校生ぐらいだった時を思い出してください。
両親が「大学には行ったほうがいい」とか言ってなかったでしょうか?
なぜそう言ったか、それは大卒という学歴が社会で意味を持つと思っていたからです。そして大学に入るためには受験が必要なので受験のための教育を考えガチです。

より高い収入を得るためには、一定の学歴が必要あると有利だと考える人の多い社会では、教育の内容も、「大学に入るのに必要な勉強を教えてくれ」となりがちです。
例えば国語、算数(数学)、理科、社会、英語に比べて、技術、家庭科、音楽、体育などの教科が軽視されているのは一つは受験教科にないということがあります。

次にBの社会的効率は雇用者(主に経済界)や納税者(私たちの一部)の視点です。
その関心は、今の経済が必要とする職業スキルを身につけるための教育という視点です。
そのため、社会の繁栄に必要なものとして教育を見ています。

最近流行りのプログラミング教育の必修化や、英語教育の小学校での義務化はIT化やグローバル化が進む社会の中で、職業スキルとして英語やプログラミングが必要だという視点から導入されたもので、Bの視点から来た改革と言えるでしょう。

最後にA民主的平等ですが、民主的国家の市民として、様々な能力を身につけるのに果たす教育という視点です。

よく教育学者が、教育は経済の道具ではないとか、逆に自民党が道徳を教科化したりするのは、保守・リベラルの対立はあるものの、この視点となります。

簡単にまとめましょう
A 良き市民の形成
B 有能な労働者の育成
C 社会移動(職の移動的な意味)の手段
という意味です

こうして整理すると、少し見えてくるのではないでしょうか
次は少し丁寧に今の改革を見てみましょう

道徳の教科化の対立

道徳という科目は、まさにA民主的平等を果たすために作られた科目ですがそもそもAの中でも対立があります。
ざっくりいうと、愛国心という共同体主義的な道徳保守主義と、様々な価値を認めようとする個人主義的なリベラル多元主義です。

わかりにくいですね、これならどうでしょうか、例えばいじめなどが起こると「規範意識が足らなくなっている」という人たちと「他者の違いを理解し認め合う、人権意識や異文化理解が足らないんだ」と考える人たちが出てきますが、これがAの対立です。

規範意識というのは〇〇ということは良いことだという価値観を示しています。例えば「弱気を守り、強気を挫く」と言った考えが良いと広まっていたら、それが規範意識です。そもそもその考え方が良いかどうかすらわかりませんが、規範意識が足らないと考える方は同一の考えが広まった方が良いと考えるそうです。
一方で人権意識や異文化理解というのは、非常に個人主義的です。相手の言ってることが良いかどうかは知らないが、法律とかに反していない限り尊重するといったものです。

このAの対立で、道徳の教科は愛国心や一元的な価値を教えるといった、自民党を中心とする道徳保守主義的な力が働いたために、対立するリベラルな方を中心に大きく反発が起こりました。

どちらがいいとはいえませんが、対立構図はわかりやすくなったでしょうか?

経済界からの要望

さて今度は経済界を含む様々な社会からの要望です。
ざっくり言うとこんなものがあります。
①もっと専門的な知識を学校で教えて、社会で出たらそのまま使えるようにして
②主体的で自分で問題解決できるような人材を育てて(従来の詰め込みじゃなくて)
③学校に市場原理や経営論理を取り込んでもっと効率的にして

こんな感じの要望です。
実際の改革ではこんな対立が発生しました。

①そもそも学校は職業教育の機関ではない。色んな目標を追求する場所である
②会社で育てるから別に知識の詰め込みで良い
学力が下がるのは困る
③市場原理を取り入れるというのは、投資を減らし平等性が失われる、また公共性が失われる
その時々の経済状況に左右され、普遍性がない

このような対立が生まれてきています。
しかもこの対立、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、昔ながらの保守VSリベラルとも違います。②の要望はリベラルな方がよく主張する内容です。③はネオリベラルという考え方の方がよく使います。
単純な対立軸ではないということが、改革を意味不明なものにしてしまう大きな要因であると私は思います。

社会移動

さて最後の社会移動です。
これは、教育を受ける人と主にその親の視点でした。
例えばなのですが、今から大学入試が全部、ボランティアのこなした数で決めますと言ったら、高校生はどうするでしょうか?
おそらく、学校にボランティアができる場所がどこか聞くでしょう。
今まで受験勉強で英語をやっていた時間を、全部ボランティアにしてくれなどというかもしれません。
このように、この視点は大きな部分を入試制度に依存しています。
そのため、現在の入試制度では、詰め込みと画一性が強く求められているため、例えばBで主体的な教育をとなっても、「入試で使わないのになんでやるの?」となるわけです。
よく詰め込み教育と主体的な教育は対比されますが、どちらも必要だと私は思っているので、あくまで、ここでは思想的な対立としてあるのであって、実際問題としてはどちらも必要でしょう。

主体的な教育というのもパッと聞くと個性を重視して良さげな感じがしますが、かなり危険な意味を持っていることに注意してほしいです。
個性というのは、生まれた瞬間からどのぐらいあるのかと言われたら、多少はあるでしょうが(自閉症スペクトラムなどの先天的な障害を除く)、実際たいした違いはありません。むしろ個性というのは、成長過程で大きく変容するものだと理解しています。

しかし、個性を重視しようとして、行きすぎた議論になると生まれながらにもってるものを大事にしたがります。
結果小さいうちからの早期教育に走って、所得の差による教育格差が出来上がる可能性があります。
エリート教育や株式学校、フリースクールなども個性重視、主体的な教育といったワードから生まれてきたものです。さらに、最近行われた幼児教育の無償化はこの流れからですね。

また、もう少し言うと、そもそも大学の価値が落ちてきました。かつてのように大学に行く人が希少ではなくなり、大学全入学時代とまで言われるようになりました。(そのため大学の入試を変えようという動きが出てきているのですが)
別に大学入ったからと言ってそんな良い暮らしができるわけでもない。そんなに頑張らなくても、少なくとも餓死することはないとなってきます。

そうなってくると、詰め込みで勉強するモチベーションは維持できなくなってきていると考えられます。
そういう意味でも勉強する意味を考えるという視点で、主体的な教育というのが、提唱されているのかもしれませんね。

おわりに

最近ではもはや追うこともできないぐらいの教育改革が行われています。
現場の先生方は非常に大変でしょうし、もう勘弁してくれというのが本音であると思います。

多くの人が、様々な思想の対立軸の中で教育改革を提唱されている構図を理解して、少しでもマシで実現可能な、予算やそれを行う教員の数をしっかり確保した教育改革をしつつ、改革をしすぎないことが大切であると私は思います。



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