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不登校児が親にしてもらって嬉しかったこと(その2)

前回の記事はこちらからどうぞ♪



さて、わたしもあれからそれはそれは立派な普通のおばさんになりました(笑)


不思議なことにわたしと両親
不登校当時から現在にいたるまで
不登校がどうで、
あのときああで、こうで、
こんなことをしてあげた、
なんでこうだったの?とか
特に言われたことがない

私としては全く避けているとかではなく
なんか他に両親としたい会話の方が
単に優先される感じかな…
特に昔にフォーカスする必要もなく
ここまではきた


そしていまのわたしの生活についても
「親のおかげ」的なことをいわれることもない

むしろ何もしてあげられなくてごめんね。


よよのためならいつだって何だってするよと、そんな親の思いの言霊が
耳元にふわふわずっとあるような
感覚すらある

会話がないとかではなく
逆に他愛のない会話や
常に私を思いやる言動を受け取ってきた

離れて暮らしてからも
何か小さな小さな記念日を
沢山つくって
わたし本人も覚えてないような
何気ない日を記念日として欠かさず
メッセージを送ってくれる温かでマメな母と優しい父


こんなおばさんになっていても
両親にとって子どもというものは
いつまでたっても子どもなのでしょうね


私は母が
人の悪口を言ってるのを一度も聞いたことがない

そんな母だからか
他責なにかのせいにするための原因さがしや、問い詰めたりしている姿もみたことがない

少なくともわたしに対しては
いつもニューロラルな状態を示してくれていた

もちろん父も母も内心は葛藤があったのはわかっている

本棚の裏に隠された
「不登校」の本があったのを知っているし

またあるときに迷走しすぎたのか、
お祓い?占い?に連れていかれたこともあった

そこは何やら有名な霊能力者がいるお寺とのことで
「いくつもの霊に取りつかれている」
「普通よりも多く」
「ご先祖さまもたくさんついている」
「だから身体が重いはずだ」
みたいなことをいわれた

まぁそんなエピソードを作ってしまうくらいには両親に苦労をかけたことは確かだ


病院では何の診断もされないけど
娘には心身の不調があって
どうにかしてあげられないかと
たくさん悩ませ、かなりの心配をかけていた

でも両親の苦悩は

こんな不出来な娘がいることに対する
「辛さ、悲しみ」
ではなく
「同級生たちと一緒に青春が経験させられなかったかな」
とか、そんな悲しみというか
どうこういわれたわけではないし
上手くは伝えられないけど
そんなことを恐らく思ってたのかと
感じとっている




話しは変わって数年前
たまたま母と共通の知り合いの
不登校の子の話題になったときがあった

そのときたった1度だけ当時のことを質問されたことがあったことを思いだした


「よよは、よく体調不良があったけど、あれは全部本当だったの?」



わたしはこう答えた

「あぁ・・・ほとんどウソだったよ

心苦しい気もしたけど
あっけらかんと答えた私

具合がわるい[感じ]はあったと思うんだけど


はっきりと仮病を使っていたことを
強く覚えている

その回数や内容を思い返すと
自分に説教したくなるくらい
大バカ者〜ってなる

両親は私が身体の不調を訴えると
すぐに病院に連れていってくれて
そのたびに何度も何度も
ありとあらゆる検査をしたのを
覚えている

検査はすべて病気検知のためであり
発達検査の類はしたことがなかった

小学校に通っていたころは
学力普通、体育好き、友達関係良好
特筆すべきトラブルなし
クラブ活動も好き、運動会や行事も好き
クラスのなかでも明るく賑やかなグループでワイガヤも好きだった

そんなかんじだったこと
時代的なこともあり
発達検査には
ならなかったのだとおもう

一見満喫してるような学校生活に聞こえるが、行きたくない日はわりと高頻度であって、そんなときは正直、仮病使いのプロだったとおもう・・・
クドいけど我ながらなんてヒドイ子なんだ・・・

と思うけど

学校に行きたくないから
そんなウソに逃げるしかなかったのだと思う


お腹の痛さを訴え続けて1週間、検査入院になったこともあったし
大病の子達がいる病棟に混ざって1ヶ月入院したこともある

でも大事には至らなかった

なぜか?

仮病だったからである


精神病院には連れて行かれなかった
その点を親はどう捉えて
どの判断軸をもっていたか
わからないけど
心理面の薬を飲まずにこれたのは
よかったな、ありがたいなと思う


中学にあがり体力が本当になくて
息切れや貧血になりやすく
か弱い体質だったのは事実ある

すぐに疲れたり
起立性障害になっていたことも・・・

1年生1学期の5、6月から
完全不登校がはじまるのだが
直前期1日が終わって帰ると玄関先で力尽きて倒れ込んでいたこともあった

身体の発達と体力、精神力すべて
中学の勉強や部活に見合ってなかったのはあるかもしれない

それでも低学年のころから日常的に繰り返された


「あたまいたい」
「おなかいたい」


こんな訴えに対して
本当に真正面からただただ心配してくれるという対応を一貫してとってくれていた



仮病ばっかり使ってたら

「熱はないんだから、大丈夫でしょ!」
「寝てないで行こうよ!行けば元気になるから!」
「やることはやろう!」

とか、普通に言ってしまいそうだよねぇ…

でも、そんなふうには言われなかった

具合が悪いというと

「大丈夫?」
「辛いね、わかった、学校に連絡して おくからね、ゆっくり休んでてね」

と、この対応は低学年のころからずっと変わらなかった



さて、ここまでは
わたし目線の親の姿だ

我が子の行き渋りの対応のなかで
自分はこんな両親の対応はとてもマネしきれないなぁとか


わたしはこうされたと思ってるけど
記憶違いとかあるのかなーとか


いや、たった数日の行き渋りでこんなシンドイのに一体どうやってすべてを受容するかのようなあの対応を・・・!?とかね


記憶がただしければ尚更、
感謝しかないわけで
もう頭の中がハテナ???で
いっぱいになるくらいには
自分の子どもの行き渋りを通して
久々に不登校だったころの
いろんな記憶を掘り起こしては
我が子に汎用したいが
どうにも壁にぶつかっていた
(いや、いま進行形だけども)


さて
両親側からの目線で
当時、娘の長期不登校を
どう受けて止めて、
どういう思いでいたのか?


改めて感謝を伝えたくなったのと
同時に無償に聞きたくなった

わたしのなかで不登校だったことは
大人になってみるとほぼ気にかけることもないような記憶で

そんな捉え方をしていたので
親に当時のことを色々聞きたい!


そんな心境になったのは
初めてのことだった

それくらい我が子の不登校というのは
インパクト大でしかなく

不登校出身のわたしですら
そうなるのだから
経験ないかたの心境を思うと
本当に自分にも何かできないか
いてもたってもいられなくなる気持ちになる

(なにかご質問等あれば遠慮なく!!)




ねぇ、わたしを育てることは
かなり大変だったと思うんだけど
本当に良い育て方をしてもらったことに
改めて感謝を言いたくなったよ

に対する親からの返事

どんなものがくるか
全く予想ができなかったのだけど
わたしは返事にかなりビックリすることになる



気付けは2500字を超えてしまっていたので次の記事に続きます!

長々と読んでくださりありがとうございます(o^^o)

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