見出し画像

大人も遊具で遊んじゃ駄目ですか

高校生の頃まではギリ公園の遊具に近づくのに躊躇しなかったなぁ。


チャリを漕ぎながらふと目にした公園の遊具。
ちょうどこの時間は誰もいない。無邪気に走り回る子供も、なんか嫌なママ友集団も誰ひとりとしていない。ラッキー。チャリを停めてベンチに腰掛け、カラフルに錆びた遊具を見つめながら、スマホを取り出しnoteを開く。


かつての日々の記憶が鮮やかに蘇る。
見つけては一目散に駆けていった公園の遊具。日が傾いて、5、6と短針が瞬間移動して、胸を焦がすカレーの匂いがふと鼻を掠めても、滑り台の階段を上る足は止められなくて。空の彼方に夜の欠片が見えても、縄跳びの記録更新は永遠に続けていたかったあの日々。


初めての大学生活、初めての一人暮らし、初めての都会暮らしを経験して気づけば数年。
家事とソシャゲと推し活とバイトとインターンと少しの勉強とを、孤独を携え駆け巡る日々。どこへ移動するにもチャリは必須だ。相棒である。

だけど、


別に自分はチャリを漕いでどこかに行きたい訳じゃなくて。前に進みたい訳じゃなくて。

ただブランコを漕いで、この場で優しい風に揺られていたいだけなのに。


子供には自分のペースでいることを許しても、大人には弛まぬ前進を要求し続ける、そんな世界の不条理を目の当たりにしたような気がした。


なぜブランコは子供の遊具なんだろう。
夜ならまだ堂々と乗れるのかしら。
晴れた昼下がりに太陽に手を伸ばす、でもあと少しのところで掴めない、あの感覚が好きなのになぁ。


大人が使っちゃダメな法律はないのに、近寄れば痛い視線を向けられる。
子供だけじゃなく親もいたらもう最悪。

これは単に自分が人目を気にしすぎているだけなのかしら。


周りのことなど気にするなと歌うあのひとは、果たして迷わずブランコに乗ることができるのでしょうか。



結局逆上がりが出来ないまま大人になってしまった。
物事を始めるのに遅すぎるということはないと多くの大人が語り、なんとか信じようとしている自分もいるけど、


鉄棒を握る権利だけは永遠に失われてしまったような、そんな気がした。




追記
とか言って公開設定いじってたらチャリに乗ったおじいちゃんがフラ〜っと現れて、消防車を模したロデオ?みたいなのにフラ〜っと乗ってフラ〜っと去っていきました。ちゃんと前後にガコンガコン揺れてた。

笑った。


歳を重ねたら逆に度胸はつくというか、そもそもこんな感情には縛られないかもしれんな。

カッコよかった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?