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主観の澱を踏みしめて

こんばんは。
本日は短めに。



地球は球体だ。
だから、あんなに遠くに見える地平線だって、
どこまでも続いてるわけじゃない。
必ずその向こうは、今立っている此処になる。



でも世界は。
世界は。


果てしなく平坦だ。
だから、どこまでも続いている。



僕はいつだって考えている。
僕が世界だと認識しているものは、
所詮自分の主観でしかないのだと。
この短いクソみたいな人生の中で獲得してきたフィルターで、
見える景色を色分けしてるだけ。
いつだって、どれだけ客観的になろうと努めたって、
神ではない以上、僕は僕の世界しか見られない。


僕も君も自分だけの世界を見ている。

この「世界」は「世界」に生きる全ての人間の共有財産だけど、
「ホンモノの世界」なんて絶対に存在しない。
この「世界」は個々人の一つ一つの世界の果てしない協奏によって、
「ホンモノの世界」があるように見えているだけだ。
「世界」なんて主観と主観の妥協点を寄せ集めて作った虚構でしかない。


つまりだ。
僕は何が怖いのか。



自分の世界が否定されるかもしれないということが、
どうしようもなく怖いのだ。
いや、もっと正確にいうのであれば、
自分の世界がずっと信じられないのだ。



「自分をもっている人」
「自分に自信がある人」
というのは、
自分の主観を信じることができているということだ。
あくまで主観に過ぎないから、場合によっては他人を傷つけたり巻き込んだりするリスクもあるはず。
それにもかかわらず、そのリスクすら噛み砕いて飲み込んで、
強く前に進める人だ。
しかもそういう人は大体、主観を主観だとわかった上で、
常に主観をアップデートすべく邁進しているから、
主観が主観であろうと自分の世界を信じられるのだ。



僕はまるっきりダメだ。
主観を主観だとわかっているから、
いつまでも僕の価値観に自信をもてない。
自分らしさとか個性とか、綺麗事を言うのは簡単だけど、
これが世間一般から見てちっぽけでダメダメだったら、
僕の価値観なんてもっても仕方ないじゃないか。


僕には自分の主観を受け入れて、
分解して、再構築するだけの強さがない。
だからいつまでもミジンコみたいな、最小限の主観に縋り付いて、
うじうじ生きている。




所詮主観なんだよ。
世の中を動かしてきた偉人も凡人も、
いくら仲間と話し合ったって
最終的な個々人による判断は避けられなかったはずだ。
結局歴史も、主観の気の遠くなるような紡織の産物だ。



今日立っているこの地球は物体として確かに存在しているけど。

僕が立っている「世界」は、
人間たちの主観が織りなす、壮大な恒久の虚構に過ぎない。


僕がもっている「世界」は、
僕の主観が紡ぐ、綻びまみれの流動体に過ぎない。





今日も僕は僕の価値観が信じられないから、


虚構であるはずの「世界」から外れたことを
ミュンヒハウゼンのごとく嘆く道化師だ。



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