フォー・ユア・プレジャー
エミは、散歩が好きだった。大学を辞め、決心して現在の仕事に就いてからは、殆ど毎晩散歩を欠かしていない。
その散歩は夜が中心になるものの、最近では昼間から公園をうろつくこともある。だがエミは、意図して人込みにはなるべく行かない。ナンパや勧誘の類を嫌い、その後を考えると面倒なことになる。そして何より、散歩の末の「ある行い」がやめられずにいた。
主に仕事の帰りに、散歩は行われる。そのまま「ある行い」に適した場所を探して歩くうち、すれ違った誰か――特に男――に容姿を見られて、それを「女である」と認識したのみで無視されるのを、エミは好んでいた。その感覚、優越感に似たそれを味わうために、用もないコンビニエンス・ストアに寄ることもある。だがエミは、決して口を利こうとしない。そのため、エミの接客に慣れた店員からは疎んじられ、気味悪がられていた。
そうしていつも寄り道ばかりした末に、エミは人気のない場所へ辿り着く。誰もいない、しかし、誰か来る可能性もあり得る場所を選んで。道路に面した小さな茂み、高台、もしくは以前に通っていた大学のキャンパスに赴くこともある。そういった場所で、エミは心臓の鼓動を感じながら下半身を露出させる。その行いのため、出かける際は必ずスカートを履き、冬場もパンティストッキングではなく、ガーターベルトで止めるストッキングやタイツ、ニーソックスなどを着用している。下着は履かないか、事前に脱いでくることが多い。
野外というシチュエイションがエミを昂揚させ、大胆にさせた。ある時は道具で、ある時は指で、エミは股間を刺激する。スカートをまくり上げ、股間を剥き出しにしながら狭い範囲を歩き回ることもある。誰もいない部屋より、誰かに見付かる可能性のある野外の方が刺激を誘った。数回ばかりその現場を目撃されたこともあるが、皆一様にエミを嫌悪するような表情で去っていく。その侮蔑に満ちた視線も、エミにとっては至上の刺激となっていた。
やがて頂点を迎えた後、エミは自分の性器からしたたる液体が濡らした地面を見詰めつつ、ポケットティッシュを取り出して陰部を拭く。紙は風化して自然に還る、という理由を残し、エミは何事もなかったかのように部屋に戻る。
そうしてエミは、いつも後悔する。
「エミちゃんはさ、どんな人が好みなの?」
仕事場である呑み屋――屋号は「バー」ではあるものの、一般に「キャバクラ」と呼ばれるものに近いそこで、口髭をたくわえた常連はからかうように訊いてきた。かなりの上機嫌らしく、男? 女? まさか両方じゃないよねぇ、と続く言葉は笑い声の中に含まれていた。
「あぁ、あたし知ってるぅ」
明るいスーツの胸に「マリ」と書かれたプレートを着けた、男顔の同期生が横入りする。俺はエミちゃんに訊いてんだから邪魔すんなよ、常連は怒りの表情を取り繕いながらマリを払いのけ、エミに執着した。ひどーい、マリは常連のそれを冗談だと判断し、わざとらしく頬を膨らませて常連の肩を叩く。常連は笑みを返し、ごめんごめん、とマリの髪を撫でる。その横で、エミは静かに微笑んでいなければならない……。
帰りたい、
エミは最近になって、この仕事も放棄したがるようになった。それは決して口にはせず、自分の内に秘めている。キャバクラから足を洗ってしまったら、次に自分が残れる道が見えないからだ。客には「美人」と評されることもあるものの、他には何の取り得もなく、生活の糧を得られる自信がない。かといって、男性に従う生活はエミの求めるところではない。
もとよりエミは、男性という存在を嫌っていた。今まで性の相手も常に女性であり、その矛先がない現在は、そのために野外での自慰目的の露出散歩をやめられずにいる。刺激のない生活に刺激を捏造し、やがて倦怠の始まった日常に回帰していく……その繰り返しが、エミを不安にさせていた。
私は、ここを出たらどこに行けばいいんだろう?
「エミちゃんはねぇ」
マリが、舌足らずな口調で常連に囁いていた。思い耽っていたエミは過敏に反応し、マリと目を合わせる。マリは軽く微笑み、エミに意志の疎通を返した。
「もともと好みのタイプっていうのがなくって、しかも今はそういう時期じゃなくて、ひとりになりたいんだってさ。だから諦めてあたしにしたらぁ?」
きゃはは、と笑うマリに、エミは微笑みを返した。弄ばれた口髭の常連だけが、ふうん、と不可解に納得した様を見せていた。
こんな騙し合いの日々を、いつまで続けるのだろう。
エミは、この日常に疲弊を感じていた。早く仕事を終え、ひとりになり、散歩に出たかった。
休日になると、エミは日中は寝てばかりいる。単純に仕事を軸にした生活サイクルが夜を中心として回っていることもあるが、休日前になると、散歩に凝ってしまうためだ。
遠くまで歩いていったり、自分の知らない場所へ足を進め、そうして、自慰行為に最適な新しい地点を探す。発見された喜びがあれば、その後に襲われる虚しさも大きい。そのまま朝を迎えてしまい、徒労に終わることも多い。しかしエミにとってのそれは、決して無駄な行為ではなく、日常に埋もれてしいがちな自己の存在確認になっていた。
闇が窓の外を覆う頃、エミはゆっくりと起き出し、電気を点けずに煙草を喫う。暗闇に光る仄かな赤を、エミは好んでいた。それはさながら、闇を所在なげに徘徊する自分にも似ている。
やがて煙草を消す代わりに電気を点け、エミは決まって虚しさに包まれる。前日の散歩が長引いてしまったこと、そのため睡眠が長引いたこと、結果、時間を無為に過ごしていること――その虚しさを呆然と感じながら、しかしエミは、何もすることがなかった。取り得だけでなく、趣味もない。そこから派生する興味も生まれず、散歩以外は外出する気にもなれない。
そこで取り敢えずエミは、音楽をかけてみる。かける音楽の種類によっては、行動力が生まれることもある。逆にやるせなさに包まれて、また眠りに就いてしまうこともある。休日のエミの行動は、音楽によって左右されていた。
その日流されたのは、ジャケットの「アマンダ」という人物が、性転換美女だという触れ込みで購入したロキシー・ミュージックのアルバムだった。そのことを常連客に聞いてから親近感にも似た感情が湧き、購入してみたものの、『フォー・ユア・プレジャー』というタイトルとは違って楽しめず、聴かなくなっていたものだった。それを楽しむ以前にエミは、常連客――口髭の男からそれを教えてもらったこと、結果として彼の指示に従ってしまったこと、それを選んでしまった自分を嫌い、その具現化としてのCDを嫌っていた。しかし起き抜けの頭にこだわりはなく、気分で流すことができた。
冒頭のアップ・テンポからめまぐるしく展開していくアルバムは、しかしエミに大胆な行動を起こさせるほど刺激的ではなかった。せいぜい携帯電話を取り出し、かつての友人に電話をするぐらいの活力しか、エミは得られない。しかしその相手は大学在籍中に最も親しいながら、最後には喧嘩別れのようになってしまったコンドウという男だった。
通話ボタンを押してから、ふとエミは我に返る。私は何をしてるんだろう! エミはコンドウとの間にあった諍いを思い出し、慌てて携帯電話の電源を切ろうとした。だがそれより早くコンドウが名を告げる声が響き、エミは散歩の際にも似た鼓動を抑えながら、細い声を投げた。
「久し振り」
エミの声は、今にも消えそうだった。しかし電話の先のコンドウは思いのほか、エミの電話を歓迎している。軋轢はまるでなかったかのように、彼らは話し始めることができた。
緊張の緩和を目的に、エミは二本目の煙草に火を点ける。それからは懐かしさが先に立ち、落ち着いた会話を進めることができた。コンドウは出先であるらしく、近況などを話し合うことはできそうになかったが、煙草を喫い終える頃には、かつての親しさが戻りつつあるのを感じ取れた。大学を去ってから過ごした時間が、彼らの間にある壁を取り除いていた。
「前からそうだったけどさあ」
コンドウの声が、すっかり打ち解けたものになっている。
「おまえ、ますます女っぽくなってねえか?」
やっぱ今でもそりゃ気持ち悪いぜ、コンドウの笑い声が響いた。それはかつて、ふたりの仲を裂く原因となった言葉だったが、今のエミには微笑んで聞き入れることができた。だって私は女だから、そう続けようとしたその時、突然電話の向こうから炸裂音がきこえた。テレビで映画を楽しんでいる最中、突然の停電に見舞われたような錯覚。続くのは、電話の先から伝わる荒々しい音楽と「出てって」という女の言葉だった。
そうして唐突に、電話は切れた。
不意の出来事に唖然とし、エミは現状が理解できずにいた。落ち着いて眺めた部屋には、深紫色のヴェルヴェット・ドレスと帽子で着飾った一体のマネキン人形が立てられている。散歩でもしてこよう、エミはお気に入りながらなかなか着る機会のないそれを着込み、マネキンを裸にさせた。
その頃、エミの部屋に流れる音楽は、不安感を掻き立てるような不気味なものになっていた。冒頭ではダンスさえ踊れそうなものだったそれは、淡々としたビートにノイズのようなシンセ音が被さり、時折暗い色調のサックスが拍車を掛ける。唐突な出来事と、その音楽が相乗してエミの精神に不安を駆り立てた。
エミは不意に、マネキンの白い硬質の肌が憎らしくなった。硬いながらも起伏として存在する胸部を、特に憎んだ。突起物のない股間も憎んだ。どうしてあなたは、エミは声を荒げる。どうしてあなたは、マネキンのくせに女として生まれてこれたのよ。
マネキンの首をつかみ、エミは渾身の力を込めた。しかし幾ら首を絞めようと、顔のないマネキンは反応を示す筈もない。その冷徹さがまたエミの憎悪を掻き立て、ロープを取り出させた。エミはマネキンの首をロープで結び、天井にほど近いフックに掛ける。強く引っ張ってマネキンの足を浮かせ、ロープの先端をテーブルの脚に結ぶ。そうすることで、エミはマネキンを吊るした。
どうして、吊るされたマネキンを見詰めながらエミは吐息を漏らす。どうしてこんなことをしているんだろう、どうしてこんなことで興奮するんだろう、どうしてこんなことで躰が熱くなってしまうのだろう……エミは我慢ができず、その場でドレスのスカートをたくし上げた。下着は履いていない。剥き出しになった股間は、隆々とした突起物を空間に晒し、既にその先端からは半透明の液体が滲み出ている。エミはマネキンを眺め、自分の股間から生える突起にあてがった手を上下させた。すぐにエミの中枢から全身に鋭い快感が巡り、それは突起物の先端に収束、白濁した液体となって外に放射される。そして液体はマネキンの足を汚し、糸を引いて床に垂れ落ちる。摩擦をやめたエミは、自分の手とマネキンの足にかかった液体を見比べながら、深い溜息を吐いた。
そうしてエミは、いつも後悔する。
自分が、男に生まれてしまったことを。
(了)
inspired from: Roxy Music“FOR YOUR PLEASURE”
(2003年02月完成/原稿用紙13枚)
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