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ミュージシャンからバルミューダの創業者に。共通するのは心動かす”共感”と人々を喜ばせたいという気持ち|BALMUDA Chronicle - 01

バルミューダの創業者、寺尾玄てらおげんが創業前に音楽活動を生業なりわいとしてきたことは、取材などの場でもたびたび言及してきたので、ご存じの方もいるのではないでしょうか。マガジン「BALMUDA Chronicle」第1回は、寺尾が体験したミュージシャン時代について。それは、17歳の旅から始まりました。

「人と違うことをしなさい」

寺尾は、幼少期より親からこのように言われて育ちました。高校2年のとき、進路調査のアンケートを迫られますが、回答せず、代わりに退学届を提出します。17歳の寺尾は「可能性」こそ自分がもつ最も神聖なものだと直感的に信じていました。進路を決めるということは、それを制限することだと感じたのです。高校を中退し、たったひとりで地中海沿岸を巡る旅へ出掛けます。

その旅で経験したことは、以降、多様な表現の源泉となっていきます。言葉が通じない世界で他者と共感できたことは、少年時代の寺尾の大きな自信へとつながりました。古くから変わらない美しい街並みや独特の文化は、それまで目にしたことのない世界の奥深さを知るきっかけとなります。

ロックスターになる

旅は常に音楽と共にありました。どこへ行っても音楽は国境を越えて人生を鼓舞してくれました。自分も人をよろこばせたい、多くの人を熱狂させる存在になりたいと願い、ロックスターになる決意をします。

約1年の旅を終えて帰国し、仲間とバンドを組んで本格的にミュージシャンへの道を歩み始めました。大手レーベルとの契約、その破棄などいろいろなことを経験しながら長年、音楽活動に打ち込むのですが、10年経っても夢に描いたような結果を出すことができず、ついにその時代に幕を下ろすことになります。

バルミューダ前史

ミュージシャンとして成功は掴めませんでしたが、その10年はバルミューダの前史そのものと言えます。なぜなら、それは寺尾にとって非常に尊い体験だったからです。

歌詞を書き、メロディーに乗せ、バンドで奏でるという行為は、あらゆる方向にアンテナを張り、それらを整え、アウトプットするという途方もない作業です。また、ミュージシャンは“他人と合わせる”ことが必須です。常に相手ありきの中でクリエーションをしていかなくてはなりません。寺尾はミュージシャン時代を通し、社会人としての基礎を習得していったのです。

ビジネスの世界へ

ミュージシャンの道を断念した寺尾は、ある日、オランダのデザイン誌と出会います。そこに載っていた突き抜けたプロダクトデザインに、すっかり心を奪われてしまいました。「良いデザイン」に対して抱く共感は、音楽に対して抱くそれと、まったく同じものだったのです。

「私は“共感”こそ人生最大のよろこびと考えています。何に共感するかは人それぞれですが、自分はこう思うと言って、うん、そうだねと返してもらえたとき、私は一番うれしいと感じます」(寺尾)

ビジネス界にいるロックスター的な存在に寺尾は憧れを抱いていました。ヴァージンのリチャード・ブランソン、アップルのスティーブ・ジョブズ、パタゴニアのイヴォン・シュイナードなど──。彼らの会社は大きなバンドなようなもので、いろんな特技をもつ人が集まっています。そのメンバーで最高の楽曲をつくるように製品を導き、世界で共感を得ています。また、元々は個人的なこと、たとえば身近な人を喜ばせたい(驚かせたい)といった気持ちが、追々、人の役に立ちたいという情熱に代わっていった点も共通していました。

デザインがもつ魅力とビジネス界のスターたちへの憧れから、寺尾は30歳でミュージシャンからものづくりの道へ「転身」を決意します。それは、17歳の旅から一本の道でつながっていました。ただ、表現のステージが変わっただけなのです。

マガジン「BALMUDA Chronicle」では創業からの20年を、年代順にストーリー仕立てでご紹介してまいります。