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スポーツのオンライン観戦は、スタジアム観戦と肩を並べたいけれど、テレビ観戦以上にはなれないって話

コロナ禍の到来によって影響を受けなかった業界など1つもないであろう。
SF小説にさえ描かれていなかった現在の状況において、あらゆる業界が変化を迫られている。ニューノーマルなどと言えば聞こえはいいかもしれないが、つまりは「ほんの数ヶ月前と同じやり方ではダメだから対応するしかない」ということである。

さて、それはスポーツ業界においても同様である。
あるかないかもわからないオリンピックのことは一度忘れて、今回は今後増えていくであろうスポーツのオンライン観戦を俎上に載せてみたい。

■無観客試合 → リモートマッチorリモートゲーム

募集していたのも知らなかったが、「無観客試合」に代わる名称が決定された。
観戦者については「リモーター」と呼ぶことで、「選手とファンの新しい関係性が生まれる可能性を感じられる」とのことである。

ボールゲーム9競技12リーグの競技力向上と運営の活性化を目指す日本トップリーグ連携機構(JTL)は6月15日、「#無観客試合を変えよう」プロジェクトの結果、無観客試合に代わる名称が「リモートマッチ」もしくは「リモートゲーム」に決定したと発表した。略称は「リモマ」となる。
参考URL:オリンピックチャンネル)

ちなみに、リモートマッチのほか、最終候補に残った持続可能性を感じられるアイデアは以下のとおりである。

・Stay Home Game
・リモートステージ
・Social Distance Games(SDGs
・キズナマッチ(絆マッチ)
・無限観客試合(∞観客試合)

「無観客試合」は制裁として課されることが多く、その言葉からはあまり良い印象を受けない。
浦和レッズ差別横断幕事件は記憶に新しいが、ソーシャルディスタンスを守りながら観戦が行われている現在も浦和サポーターは大声で応援し、自ら無観客試合を手繰り寄せようとしているのは誠に浦和らしい部分である。)
あるいは「無」という言葉からは観客が入っていないという状況が想像され、かつての「観客がたくさん入っている(三密)=人気」という常識を引きずっている人間に対して不人気であるという印象を与える可能性がある。
そこで、無観客試合に代わる新たなワードを付与するに至ったのである。

■私達は満員のスタジアムで何を楽しんでいたのか?

スタジアムで観戦していて、好プレーが起こってもリプレイなんて見られない。好プレーのあとも間髪入れずに試合は進んでいく。なんならプレー中の選手の表情はテレビで見たほうがよっぽど見やすい。
こうして、時間的・空間的制約を受けながらも、ユニフォームを身に着けてスタジアムでタオルを振り回し、声援を送っていたのである。

一方で、テレビ観戦はどうか?
観戦中に雨が降ってきたら洗濯物をとりこめるし、食事をしながらテレビの前に座ることもできる。テレビ側も適度にCMを挟み、好プレーがあればリプレイを流し、必要に応じて解説があり、常にスコアやタイムが画面に表示されている。

■スポーツ(遊び)の面白さを分析する

一度立ち止まって、そもそもスポーツ(遊び)の面白さについて考えてみたい。
不便益さんが作っている素数ものさしとは比べ物にならないくらい便利な、とあるものさしを使ってみる。
フランスの社会学者ロジェ・カイヨワは「遊びの4分類」を生み出した。

■遊びの4分類
1.アゴン(競争): スポーツ競技やボードゲーム
2.アレア(偶然):ルーレットやくじ引き
3.ミミクリ(模擬):物まねやロールプレーイングゲーム
4.イリンクス(眩暈):メリーゴーランドやブランコやスキー

4象限に表すと以下の通り。(こちらから画像をお借りしました)
どこか1箇所にマッピングされるのではなく、複数の要素を保つ場合がある。

画像1

イリンクスは急速な回転や落下運動によって、自分の内部に器官の混乱を生じさせるような状態のことを指すが、最近でいうとエクストリームスポーツなども含まれるかもしれない。まさしくめまいを感じるようなもの。

さて、前置きが長くなったが、スポーツ観戦はどれに当てはまるだろうか?
カイヨワ曰く、以下の通り、ミミクリ(模倣)とのことで、

大きなスポーツの試合はミミクリの絶好の機会である。思い出していただきたいのは、ここでは、模擬は行為者から見物人に移されるということだ。すなわち、競技者が真似るのではなく、観衆が真似るのである。選手との同一化は、それだけでもすでにミミクリを構成する。これは、読者が小説の主人公の中に、観客が映画の主人公の中に自分を見出す原因となっているミミクリと、同種のものである。

R・カイヨワ著、多田道太郎・篠崎幹夫訳『遊びと人間』(講談社、1990)

私個人としてはこれにイリンクス(めまい)も付け加えさせていただきたい。スタジアムに行って群衆の歓声にまみれてクラクラするあの感じ。

■不自由さがスタジアム観戦の楽しさを生み出している?

冒頭で述べたとおり、スタジアム観戦は時間的・空間的制約を受けている。
スポーツは一回性を持つ。
もちろん撮影しているのだからあとから見ることも可能であるが、”そのスポーツ””そのプレイ自体”はその場で生まれてその場で過ぎ去っていくのである。(ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』とかアウラの話は触れずにおく。)

テレビ観戦のときのように、途中でCM【日常】が挟まれることもなく、その時その場所にいるという制限を受けることで、目の前のスポーツ【非日常】に没入することになる。

そして、時間的・空間的制約を受けるために集った何万何十万の観客が一斉に声援を送ることで、イリンクスは加速していく。
サッカー日本代表の試合の時には、フィールド上の選手同士が会話が難しいほどに声援が送られる。フィールド上の選手でさえやかましく感じるその声援は、観客同士の鼓膜を大きく震わせる。

時間的・空間的制約を受けたスタジアムに集うことで、テレビ観戦以上のミミクリとイリンクスを感じられるのである。

■リモート観戦はスタジアム観戦を代替可能か?

「無観客試合」を「リモートマッチorリモートゲーム」と呼んでほしいところをみるに、どうやらリモート観戦を現地でのスタジアム観戦の代わりにしたいようである。
テレビの前でご飯を食べながらついでに観戦するのではなく、現地に自分の声援を届けられるサービスを使うことでより試合に没入してもらい、つながりを感じてもらおうとするサービスも登場している。

どれだけZoomの画面にファンたちの顔を1つ1つ並べても、声援が現地に届いていても、かつて感じていたミミクリとイリンクスは遠くなりにけり。

リモート観戦がテレビ観戦の枠を越えて、スタジアム観戦と同じ立ち位置になれることはない。だって、制約がないのだから。
制約という不自由の中に、あそびや楽しみを見出していたスタジアム観戦には成り代わることは不可能なのだ。

サッカーも野球も、現在、少しずつ観客を入れている。
しかし、”新しい日常”では、大声で応援すれば注意をされ、観衆の歓声やブーイングに我が声がかき消されることはなく、イリンクスを感じるチャンスはない。


■スタジアム観戦におけるミミクリとイリンクスは死んだのか?

前述の通り、リモート観戦がスタジアム観戦に置き換わることはミミクリとイリンクスの観点から不可能である。どうしたってテレビ観戦を越えられない。
では、スタジアム観戦におけるミミクリとイリンクスは死んだのか?
たぶん、現在は息を潜めているのだろう。
VR技術を使って、我々が没入し、ヴァーチャルの世界で方を組み合えば、ミミクリとイリンクスは帰ってきてくれるだろうか?帰ってきたミミクリとイリンクスは、果たして、かつてのそれと同じなのだろうか?

あるいは人間側の気持ちや認識を改めることでかつてのミミクリとイリンクスがもたらしていた楽しさが感じられるようになるのかもしれない。新しい日常で求められる気持ちや認識の変化というものはスポーツの世界も例外ではないのである。






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